農兵と地域

767 ~ 768 / 868ページ
この武州世直し一揆に伴う戦闘は、地域にさまざまなことを投げかける。これまで見てきたとおり、農兵たちはこの動員にさいし、明確に戦闘者として位置づけられている。文久三年(一八六三)より、村に対して、浪人を捕らえよ、場合によっては討ち取れ、という触は何度か出されていたが、ここに来て、農兵は戦闘の中で人を殺すことを命じられるのである。従来の軍役では、百姓が戦闘に動員される場合、百姓はあくまで人夫役、つまり、輸送部隊としての動員であり、戦闘は武士の役割であった。しかし、この動員において、農兵達は戦闘を命じられ、実際に激しい戦闘を経験するのである。この体験は、農兵達に大きな影響を与えたと思われる。先に見たとおり、訓練を通じて治者意識を高めつつあった農兵の一人である斉藤輔九郎(忠輔(ちゅうすけ))は、明治維新後、自身の履歴を振り返る中で、以下のように述べる。
 忠輔性ハ藤原弘化三丙午十一月七日ニ生レ、八歳ニシテ登山シ、十九歳ノ時御代官江川太郎左衛門殿ノ招集ニ拠リ農兵ニ加ハラレ砲術ヲ学ヒ一等司令官ヲ拝命シ、廿一歳ノ夏季(慶応三年六月)関東所々ニ暴徒蜂起シ横行既ニ北多广郡柳久保村ニ押寄セ当時防禦トシ出張官ト共ニ即兵六十余人ヲ以テ暴徒三千余人ヲ砲撃シ十余人ヲ討捕速ニ退ケリ
斉藤輔九郎は、明治維新後、戸長として地域の行政を担うとともに、製茶・養蚕・銀行などの殖産興業や、学校設立などでも、中心的な人物となる。この履歴は、明治二〇年(一八八七)に、自身の養蚕業の経歴を振り返る中で述べた自身の履歴であるが、ここでは、地域の責任者としての意識のなかに、この戦闘を位置付けている事が分かる。一方で、戦闘の中で同じ百姓身分の人々を武力で弾圧したという後ろめたさは読み取れず、治者の一員として、地域を護った経験として記憶されているのである。小平市域では、農兵経験者のほとんどが、明治維新後、地域の行政や産業の中心人物となっていくが、農兵としての戦闘の経験は、農兵達に、地域リーダーとしての自覚を強く促す契機になったと考えられる。
 一方で、江川農兵には、幕府の武力としての側面もあり、その意味で、幕府の武力となった百姓が、同じ百姓である一揆勢に向かって発砲するという、歴史的評価の難しい面もある(須田努『幕末の世直し 万人の戦争状態』)。ただし、農兵が戦闘に及ばざるを得なかった-独自の武力を持たざるを得なかった背景には、これまで見てきたとおり、治安の悪化により地域の生産や再生産が脅かされつつある状況があり、村を挙げて、村を守ろうとする意識があったのである。

図3-58 ゲベール銃(東村山ふるさと歴史館所蔵)