その後も、農兵は戦闘や動員を経験する。次の動員は、幕府の海防拠点への動員である。代官江川の拠点は伊豆韮山(にらやま)(現静岡県伊豆の国市)にあったため、伊豆の海岸線の防衛を担当していた。江川は、慶応三年六月(一八六七)、支配地域の組合村に対し、各組合村から四・五名ずつの出兵を命じ、観音崎(かんのんざき)(現神奈川県横須賀市)の台場警衛にあてた。
田無宿組合からも五名の農兵が選抜されるが、この中に、小平市域の農兵である、小川新田の小川弥一郎と滝島八太郎がいる。六月一二日、小川弥一郎ら田無宿組合の農兵は田無村を出発し、蔵敷村組合農兵三人と府中宿で合流し、その日は木曽村(きそむら)(現町田市)、翌日は藤沢宿(現神奈川県藤沢市)に宿泊し、一四日に観音崎に到着している。この時動員された農兵は、合計五四人だった。
六月末になると、村々は農兵の交代を希望したため、田無宿組合農兵は、七月一〇日に三人、二〇日に二人が交代している。小川弥一郎と交代で観音崎へやってきたのは、小川新田の滝島八太郎である。八太郎については、いくつかの記録が残されているため、この時の警衛のようすを見ておきたい。
「御備場規則連盟証」という記録には、この時の警備の概要が記されている(滝島家文書)。警備を担当していた幕府役人は、勘定の阿久沢建次郎(あくざわけんじろう)(元江川代官所手附)以下一一名で、その指揮のもと、五四名の農兵が実際の警備にあたる。「御警固人仮規則書」によると、警固には当番非番があり、警固に必要な鉄砲や玉薬などの付属品は農兵が各自持参し、毎朝一度大筒(おおづつ)稽古があり、午後には大小筒の打ち方稽古があること、沖合に船があれば、照準を合わせる訓練をすること、平常は台場内を見回ること、病気などの場合を除き、他出してはいけないこと、周辺の農民・漁民に対して粗暴な振る舞いのないこと、礼節を守り雑談などしないこと、台場内では食事などしてはいけないこと、などが定められている。内容からは、日常生活まで含めて、大変厳しい決まりがあったことがわかる。
当時一九歳だった滝島八太郎は、後発として七月一日に観音崎へ向かう。この時の小遣い帳が残されているが、羽織代や足袋・草履などの衣服代のほか、観音崎・浦賀での小遣いなど合わせて四両二分余りを遣っている(滝島家文書)。八太郎は一度、金銭の無心をする手紙を送り、これを心配した家族が、「家内のものしんぱいいたし」「いずれなりと共お返事お届け申すべく候」と、返事を書いている(滝島家文書)。この返事では、後発の警備の期間が良くわからず、下田半兵衛に確かめても、確たる返答がないため、遠方で警衛に従事する息子の心配しているようすがわかる。