大政奉還ののちも、江川農兵の動員は続く。慶応三年一二月二〇日(一八六七)、江川は支配地域の組合村に対し、「御府内物騒につき」との理由で出兵を命じる。当時の江戸市中では薩摩藩士による騒動が頻発しており、徳川家も、薩摩藩邸を襲撃すべく準備を整えるなど、極度の緊張状態にあった。江川は、芝新銭座(しばしんぜにざ)にあった自身の江戸屋敷の警備を名目に農兵を動員し、市中警備にあてようとした。田無宿組合でも農兵六名の出兵を命じられ、小川村の御用留によると、四番組佐十郎が派遣されたようだ。しかし、既に大政奉還をしたあとであり、地域の治安も不安定化している中での江戸出兵命令は、地域からの反発も強かった。
その後、慶応四年四月に起こった、勝楽寺村(しょうらくじむら)一件(勝楽寺村(現所沢市)に博徒など悪党一〇〇名が集結した事件)では、組合村農兵が、代官らの指示を受けることなく独自に出動し、また近隣の組合村農兵と連携し取り締まりにあたるなど、農兵は、地域を守るために大きな力を発揮した。
しかし、第二章第八節で見た千人同心と合わせて、地域を守る役割が地域に課され、領主同士の戦争にまで村人が動員される事態は、村人に平和と生産への専念を約束した「百姓成立」とは大いに異なる状況である。ここへいたった要因は多々あるが、百姓が戦闘者として地域を守り、領主どうしの戦争に動員される様相は、近世の終わりを告げるものであった。