官軍が江戸にやってくる一方、徳川慶喜の恭順姿勢を不服とし、江戸を出てゲリラ的に戦闘を続ける元徳川家臣や諸藩士もいた。その多くは、旧幕府歩兵隊や新選組(しんせんぐみ)と合流し、北関東から東北へと戦場を移していくが、江戸市中や江戸周辺でも、元徳川軍が組織されていた。その最たるものは、上野寛永寺(かんえいじ)の彰義隊(しょうぎたい)である。彰義隊は、寛永寺に謹慎する慶喜を警備するとの名目で結成され、その後慶喜が水戸へ移った後も、寛永寺を占拠し続けた。しかし、彰義隊の方針について、幹部の一人である渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)らは、江戸の重要地を占拠し続けていては、維新政府と徳川家との交渉に悪影響が出ると主張し、彰義隊から独立して振武軍(しんぶぐん)を結成し、郊外に拠点を置いて、維新政府を牽制するという方針を取った。上野を出た渋沢らは、飯田町(現千代田区)の旧幕府歩兵屯所からミニエー銃三〇〇丁を奪い、西へ向かう。振武軍が拠点と定めたのは、田無村(現西東京市)である。振武軍の総勢は二〇〇人とも四〇〇人とも伝わるが、こうして慶応四年閏四月(一八六八)から五月にかけて、田無を中心とした多摩地域は、一転して戊辰戦争の前線となるのである。
五月二日、振武軍は田無・所沢・拝島・扇町谷・日野・府中の六つの組合村に対し、軍資金の供出を呼びかける。田無宿組合では、組合村の各名主に、振武軍から御用があるので、田無村まで出張するよう、廻状を出している。集まった名主達に対し、振武軍の隊長は軍資金の供出を命じている。五月八日には振武軍から出金の催促があり、小川村では、五月九日と一一日に分けて、「小川村 重立候者」から、計二〇〇両もの金銭を、「軍用助合」として供出し、振武軍からは「忠誠之段奇特」と褒賞されている。
この時供出された金銭は、田無宿組合合計七三〇両、六つの組合合わせて三六〇〇~三八〇〇両にも及んでいる(『田無市史』、『飯能戦争』)。供出の根拠は「徳川氏再興のため」であるが、この短期間にこれだけの金銭が供出されたことからも、振武軍の駐屯が、地域の人びとに大きな衝撃と恐怖を与えたことが分かる。しかも、地域を守るために結成された改革組合村が、ここに来て、金銭の供出のためにルートとして転用されているのである。
図3-60 「覚」慶応4年5月(小川家文書)