仁義隊の感状

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振武軍が田無へやってくるのと同じ頃、八王子千人同心や幕府脱走兵などで結成された「仁義隊(じんぎたい)」も、江戸へ向かっていた。仁義隊は閏四月二五日に中野宝仙寺(ほうせんじ)(現中野区)に屯集しており、多摩地域の村々に、金銭の供出を命じていた。小川村でも、五月一日、名主弥次郎に対し、「談じ申すべき儀これ有り」とのことで出頭要請があり、弥次郎は七両を献金している。弥次郎の献金に対して、仁義隊間宮謹八郎(まみやきんぱちろう)からは「神君弐百八拾年太平為報恩」として、「感状」が出されている。感状とは、中世以来、部下の戦場での戦功を上官が確認・褒賞するために発給した文書で、この感状の末尾では「御当家再興の上厚恩賞これ有るべく、後日の為に感賞の状」とあり、この献金が、単なる軍資の供出ではなく、徳川家の再興のためのものだと正当化し、再興がなったうえは、この感状を根拠に、厚く褒賞するとしている。
 多摩地域の幕領の村々は、徳川家康以来の恩に報い、徳川家の再興のために尽くすべきだとして、負担を強いられるのである。

図3-61 「感状之事」慶応4年5月(小川家文書)