そのころ、田無村で資金調達に成功した振武軍は、五月一二日、より戦略的に有利な拠点を目指し、箱根ヶ崎村(現瑞穂町)へ向かった。箱根ヶ崎村であれば、江戸から追討軍が来ても一日で到着することはないため、途中で追討軍の情報を察知して対応できると考えたのである。田無村から箱根ヶ崎村へ向かうのに際し、その中間にあたる小川村には、「振武軍三〇〇余名昼休」が命じられ、小川村では人馬を用意し、小川寺と妙法寺(みょうほうじ)、吉見屋(よしみや)など四軒を宿営地として宿割りするなどの対応に追われている。
しかし、箱根ヶ崎に移った振武軍のもとへ、五月一五日、江戸にいた振武軍の隊士から相次いで「江戸表急用の義これ有り」とする急御用状がもたらされる(小川家文書)。この急用とは、上野戦争勃発の情報である。この報せを受けた箱根ヶ崎の振武軍は、直ちに来た道を引き返して江戸へ向かう。道中の小川村には、再び「三〇〇名ほど弁当差し出」すことを命じられている。しかし、一六日の朝に田無に着いてみると、上野は既に一五日の昼には陥落していたことを知らされる。一六日は田無に宿陣したが、ここで仁義隊や上野から落ち延びてきた彰義隊士を吸収したため、振武軍は総勢一五〇〇人までにふくれあがっていたという。翌一七日、隊は二手に分かれ、一隊は所沢(現埼玉県所沢市)から扇町屋(現埼玉県入間市)へ、一隊は小川から箱根ヶ崎(現瑞穂町)を経て飯能(現埼玉県飯能市)へ向かっている。小川村には、みたび、昼休みへの対応が命じられた。
一七日に振武軍が箱根ヶ崎へ向かうと、同日、二〇名の彰義隊士がそれを追って小川村を通行し、一八日になると、今度は維新政府から、振武軍の追討隊の先触れがやってくる。一八日には「朝廷御用芸州様神機隊(しんきたい)弐百人程明十八日通行に付き人足差し出し」と、官軍の先鋒として広島藩の神機隊二〇〇名がやってくるので、その対応を命じられる。この神機隊は、広島藩で徴募された農兵である。二一日には「凶党横行に付き掃棠(そうとう)の為め官軍兵隊出張に付き四百人程兵食其外用意の達」として、振武軍追討軍のための人足や兵糧の用意を命じられている。その後振武軍と維新政府軍は、五月二三日、飯能で決戦に及び、振武軍はここで壊滅し、多摩の戊辰戦争はここで終結した(『飯能戦争』)。小平市域の人びとにとって、官軍・振武軍・仁義隊が相次いで通行・宿営し、通常の役負担とは桁違いの出金を命じられることが、戊辰戦争であった。数百人からなる軍隊が小川村に五度も宿営し、場合によっては戦場となる可能性すら有った体験は、徳川幕府の終わったことを理解するのに十分な体験だったことだろう。
図3-62 振武軍隊旗
(飯能市郷土館寄託)