明治維新後、農兵に貸与された鉄砲はどうなったのだろうか?明治三年(一八七〇)、小川村組合一一か村は「御筒拝借請書」を韮山県に提出している。これまで拝借していた洋式銃について返納するように命じられたけれど、「近来物騒敷時節悪もの共立廻り万一乱入およひ候節筒これ無く候ては差し支え」と、維新後も地域の治安は悪いままであり、銃が無くては悪党に立ち向かえないので、引き続き鉄砲を借りたいと願い出ているのである。村人が引き続き自衛のために武装していること、そのために洋式銃を借りていることが分かる。この時、小川村には五挺、小川新田には三挺、廻り田新田には一挺、小川村組合一一か村には三五挺もの洋式銃があった。さらに、この申し出に対し韮山県は、農兵に貸与していたゲベール銃は既に旧式なので回収し、代わりにミニエー銃を貸与したのである。徴兵制施行目前の段階で、既に村人は自衛の為に武装していたのである。
明治五年になると、明治政府は「銃砲取締規則」を発布し、民間の銃の取り締まりに乗り出す。銃や弾薬の取り引きが許可制・免許制になって管理される一方、民間では猟銃は免許銃として登録され、軍用銃は私的な所持を禁止され、これまで所持していた軍用銃は銃砲に刻印した上で登録されることになる。(保谷徹「免許銃・所持銃・拝借銃ノート」)。つまり、これまで農具として用いられてきた猟銃は免許銃となり、幕末期以降に自衛のために拝借・購入した洋式銃は所持銃として区別され、後者は新規に購入することが禁じられたのである。また、所持銃のなかでも、農兵に貸与された銃は拝借銃として念入りに調査された。
「銃砲取締規則」を受けて、明治六年、あらためて民間の鉄砲調査が行われる。この時の調査によると、小川村には五挺の、小川新田には三挺の、廻り田新田には一挺の、計九挺の拝借銃(ミニエー銃)がある一方、そのほか三挺の所持銃(ゲベール銃)があった。この三挺は幕末に自衛のために購入したものだと思われ、さっそく県から登録番号が刻印されている。同時に調査をした神奈川県第一一大区九小区一一か村では、三五挺の拝借銃と三一挺のその他の所持銃があり、銃種もゲベール銃・ミニエー銃のほか、ピストルや馬乗銃、ヤーゲル銃など多様な銃が所持されていた。また、このほか多数の免許銃(和銃)が所持されていた。
小平市域の村々では、その後も「銃炮願扣」などの記録が残されており、そこでは「職猟銃炮願」「新規願」「職猟銃御検査願」「銃猟免許状」として、和銃の所持や免許の更新、購入が行われていた。また「廃銃願」として、拝借銃の洋式銃が「諸機械及筒中央折レ当時ニ至リテハ使用難仕」ということで取り潰して廃銃にされることもあった。こうして民間の鉄砲は国の詳細に把握するところになったわけだが、これらの武器が国に没収されることはなかった。武器としての村の鉄砲は、幕末の動乱期を経て、再び封印されたのである。
図3-63 「拝借銃炮取調書上控」
明治6年(斉藤家文書)