御門訴起こる

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明治三年(一八七〇)の正月一〇日夜、松飾りがとれたばかりの東京の中心部は騒然としていた。五〇〇人を越える蓑笠姿の人たちが、日本橋浜町河岸(はまちょうがし)(現中央区)にあった品川県庁の前に集結したのである。彼らは門前に並んで口々に武蔵野新田の窮状を訴え、これまで彼らの責任で村の倉に穀物を蓄え凶作に備えるという「社倉」制度を改悪しないでくれるようにと叫んでいた。門前で叫んだものの、誰一人としてなかに入ろうとはしなかった。なかに入ると、「強訴」という近世以来禁止されてきた違法な集団的示威行動とみなされてしまうことをおそれたのである。しかし、突然開かれた門から騎馬二頭を先頭に飛び出してきた多くの兵士たちが刀を振りかざし、「けしからぬ百姓たちだ」と言ってこの門前の集団に襲いかかってきた。参加した多くの人々が負傷し、五一名が逮捕された。一三日になると、関係者の本格的な捜索・逮捕がはじまり、明治四年二月には厳しい判決がくだった。城や領主の屋敷あるいは役所などに集団でいき、その門前で訴願するという行為を「門訴」と呼んだので、この事件は「御門訴一件」と呼ばれた(ここでは、以下御門訴事件と呼ぶ)。
 この御門訴事件は、多摩地方においては、慶応二年(一八六六)の武州世直し一揆から自由民権運動までの間をつなげて理解するために重要な民衆運動である。また、全国的にみても明治二年から三年にかけて維新政権の政策に反発して各地で勃発した新政反対一揆に含まれる。一揆勢の規模は数百人程度だったとはいえ、新政府の膝元である東京の真ん中を、日本橋浜町河岸の品川県庁前まで蓑笠姿で押し寄せたのであるから、東京へ移り権力基盤を強化しようとしていた矢先の維新政府に大きな衝撃を与えた。これまで幕府代官が支配してきた旧幕府領をそのまま接収して成立した品川県などの直轄県では、これまでの組合村や村落にもとづいた支配方式を利用しながら、新政府の新しい政策を実現する必要があったので、それがうまくできないとしたら大変なことだったのである。
 この品川県への「御門訴」に参加したのは、関前新田(現武蔵野市)・上保谷新田(現西東京市)・梶野新田・関野新田(以上、現小金井市)・柳窪新田(現東久留米市)・内藤新田・戸倉新田・野中新田六左衛門組(以上、現国分寺市)・鈴木新田・大沼田新田・野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組(以上、現小平市)という武蔵野新田一二か村の人びとであった。江戸時代で禁止されていた「徒党」(集団、すなわち一揆を結成してその要求を強引に実現しようするもの)として、この新政府に対する集団的嘆願闘争の中心的参加者や関係者は厳しい取り調べを受け、たくさんの処罰者を出したが、参加した人びとはこの事件を隠そうとはしていない。一〇年後の明治一三年には、上保谷新田の地内に、同村名主で中心的役割を果たした平井伊左衛門の名前を刻んだ記念碑にあたる招魂塔(しょうこんとう)が、同じくこの村で深くかかわった人びとを含めた世話人たちの手で建立されている。また、明治二七年には関前新田の地内に同村名主で、やはり事件で中心的役割を果たして投獄され病死した井口忠左衛門と失踪した息子の荘司とを顕彰した「倚鍤碑(いそうのひ)」が村人など六八人によって建立されている。井口親子については大正四年(一九一五)にも顕彰する碑が建てられている。小平市域に関しては、直接にこの事件に関して顕彰するものではないが、牢死した野中新田与右衛門組の名主高橋定右衛門の墓碑が明治二一年に妻みやの死を契機にして建てられている(口絵20)。この施主には、長男忠蔵のほかに二四名の筆子が名を連ねており、定右衛門が生前に寺子屋の師匠をしていて村人から慕われていたものと考えられる(本章第二節)。こうしたなかで、明治一八年一二月には、内藤・戸倉新田の戸長であった神山平左衛門(こうやまへいざえもん)が、「社倉一件控」などの関係史料を含め、この事件の経緯などをまとめた「むさし野の涙」を編んでいる。平左衛門自身は事件当時一六歳ではあったが、その後内藤新田の百姓代など村役人を勤め、事件後の処理に関わる「経験者」だったので、創作の部分もあるにせよ、その叙述は生き生きとしている。もっとも、同書の末尾三分の一近くは武州世直し一揆の記事になっており、彼にとっては、この事件が武州世直し一揆の流れのうえに位置づけられていることがわかる。さらに、彼は自由党員にもなっているので、多摩地方の自由民権運動にまでつながるこの地域の歴史的事件だったと考えることができる。この事件は、多くの処罰者を出しながらも、その行動は参加した村々やかかわった人びとのなかで、ある時期までは確実に語り継がれてきたのである。
 小平市域からも、鈴木新田・大沼田新田・野中新田二組の四か村の人々が参加しており、首謀者と目されて逮捕され牢死した野中新田与右衛門組名主定右衛門のほか、多くの人びとが処罰されている。小平にとっても、このあとの近代の市域の歴史を考えるうえで避けて通ることのできない大事件であったと考えられる。
表3-20 「御門訴」に参加した武蔵野新田12か村の概要
村名現在の市名開発時期検地年代村高戸数
元文4年天保年間
新座郡上保谷新田西東京市享保9年元文元年183.423237
多摩郡関前新田武蔵野市195.6532534
梶野新田小金井市196.9963739
関野新田202.2033448
鈴木新田小平市747.452123111
大沼田新田320.8383945
多摩郡 野中新田与右衛門組466.8775258
善左衛門組369.8775850
六左衛門組国分寺市364.4354645
多摩郡戸倉新田133.3882147
内藤新田112.220622
柳窪新田東久留米市130.3491817
         小平市域の村
森安彦「「御門訴」の展開過程」を参照し、適宜補訂して作成。


図3-64 倚鍤碑