江戸近郊の直轄県と地域社会

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事件に話を進める前に、この事件が起こる前後の江戸近郊の状況について簡単に説明しておこう。慶応二年(一八六六)、夏から雨続きで冷害が起こることが予想されるなか、幕府による第二次の長州戦争の準備が進められた。兵糧米(ひょうろうまい)の確保などと相まって米価が高騰した江戸をはじめとする大都市、開港後不安定な物価を続けていた生糸の生産地、養蚕業地帯および国内産生糸が輸出にまわされることで原料値段の高騰に苦しんだ絹織物業地帯などで、米を買い占める商人や生糸の横浜への売り込み商などの豪農商に対する下層の人びとの不満が蓄積され、各地で豪農商などの打ち壊しが起こった。将軍のいた大坂では将軍の責任を追及する動きもみられたし、江戸では「御政治売り切れ申し候」という張り紙が貼られたという。このようななかで、百姓一揆や都市の打ち壊しなどの民衆運動は全国的な広がりをみせ、この年近世末の大きなピークをつくった。「世直し」(世の中が大きく変革されること)を期待し、またそれを言葉に出して一揆や打ち壊しに参加する人々も生まれたので、こうした民衆運動が昂揚した状態を「世直し状況」と呼ぶ。そのなかで、幕府と長州藩との戦争もはじまり、江戸廻りの武州では、規模が大きくその後の政治状況に大きな影響を与えた武州世直し一揆が起こる(第三章第六節)。
 慶応三年は作物の生育状態も良く、長州戦争も休戦になったので、世情の混乱は小康状態をむかえた。政治的には、慶応三年一二月王政復古の大号令が出され、戊辰戦争のなか、慶応四年三月には江戸が開城され、七月には江戸は東京となり、九月に元号が明治となった(明治元年)。一〇月一三日には、まだ少年だった明治天皇が新しい支配者として大行列を組んで東京をおとずれ、一一月には市中一六〇〇町に二五〇〇余の樽酒をふるまって(「天盃頂戴(てんぱいちょうだい)」)新しい政治がはじまることを示そうとする。東京では市民が二日間の休業日を酔って楽しんだ頃、関東の村々では、第六節で紹介したように、開港以来の政治的・経済的混乱のなかで強制された助郷役や農兵・兵賦の徴発、振武軍の用金賦課に苦しんでいた。
 こののち、慶応三年はともかく、その後不作が続いたこともあって、明治二、三年と百姓一揆が増加するようになり、維新政権への不満も生まれはじめていた。こうしたなかで、維新政府は、慶応四年八月から明治二年正月にかけて、江戸近郊の諸県(旧幕府領・旗本知行所を接収して直轄県とする)の知県事を、旧幕府の代官から東征軍のなかの官僚(藩士レベル)に替えて、政権が替わったことを印象づけようとした。しかし、実際には、従来の代官支配を継続した江川氏の管轄下である韮山県と品川県・大宮県・小菅県とでは、その県政のありかたに違いがみられ、必ずしも統一がとれていたわけではない。明治二年四月一〇日に、この多摩郡(武蔵野新田)地方は、品川県(知事は旧肥前藩士古賀一平(定雄))の管轄下に入り、この古賀は、明治政府が財政難をしのぐために大量発行した太政官札(だじょうかんさつ)を強制的に流通貨幣(正金)に交換させるという措置を強要することからはじめた。そして、政府の収入増加政策でもある新社倉政策をそのまま県下で強行しようとしたのである。これに対して、韮山県ではどちらについても強制していない(『田無市史 通史編』)。韮山知県事はこの地域の幕府領を支配し、実情をよく知っていた元韮山代官の江川太郎左衛門だったから、これまで関東の多くの農村で実施されていた、飢饉など困ったときのための相互扶助・穀物貯蓄制度をそのまま継承させようとした。たとえば「養料金并溜雑穀制」と呼ばれる救恤制度(きゅうじゅつせいど)がつくられており、少なくとも安政期(一八五四~六〇)には、各村に「穀櫃(こくびつ)」などと呼ばれた非常用の穀物を蓄えておく施設が置かれ、村役人の管理運営のもと、非常時の困窮百姓救済策として機能していた。幕領を中心に、こうした地域社会(組合村や村)による救恤体制は、村役人が穀櫃や社倉米(穀)の管理をすることで維持されており、これがこの地方の地域社会の到達点でもあった。
 古賀品川知県事は、全国政権として財政基盤を安定させることを優先し、こうした地域社会のありかたを無視して新しい政策を強行しようとしたのであり、その結果起こったのがこの御門訴事件だったのである。

図3-65 古賀一平肖像写真
(港区立港郷土資料館所蔵)