発端-新しい社倉制度の強制-

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ここでは、小平市域に残された御門訴事件関係史料(史料集一八)と「弾正台探索書」(『田無市史 史料編二』一七九~一九六頁)を中心にし、同時に『むさし野の涙』の叙述の助けも借りながら、この事件の概要について紹介しよう。年表もあわせて参照されたい。
表3-21 御門訴事件関係年表
日付出来事
明治2年
11月3日品川県勧農方荒木源左衛門・矢部貞造出役、社倉積穀を申付ける
11月12日社倉出穀御憐愍の嘆願書を提出
12月5・6日荒木源左衛門田無村に出役し、村役人小前を呼出教諭
12月18日社倉一件ニ付荒木は担当からは外れ西村小助権大属田無村へ出役
12月19日社倉積立ニ付小前と相談のため日延願
12月26日村々惣代伊左衛門・忠左衛門・定右衛門御調中宿預け
12月28日小前一同人気騒立田無村八反歩へ屯集
12月29日福永忠太郎大属・飯沼吉次郎小属出役、一同人気差止
明治3年
正月4日梶野新田藤三郎・関野新田清十郎役所へ罷出、下田半兵衞に会う
正月7日村役人不残役所へ召出
正月9日難渋者差除上中下三等ニ分け出穀教諭の旨承伏、小前一同への申諭し廿五まで日延願
伊左衛門・忠左右衛門宿預け御免
正月10日村役人帰村途中、村方のもの品川県庁へ門訴
正月13日上保谷新田峰吉召捕
正月17日内藤新宿へ伊左衛門・忠左衛門呼出吟味
内藤新田治助・大沼田新田弥左衛門召捕
正月18日上保谷新田元右衛門・国五郎田無村陣屋へ自訴
正月19日忠左衛門・伊左衛門・治助・弥左衛門田無村陣屋へ引立
野中新田定右衛門召捕
告諭の建札
上保谷新田伊左衛門妻しか・嘉吉息子東太召捕
正月21日定右衛門・伊左衛門・治助・弥左衛門・元右衛門・国五郎本所へ入牢
正月22日本所六番牢の伊左衛門へ見舞金差入れ
野中新田惣兵衛無提灯で東京を歩行、召捕品川県へ引渡
正月26日本所六番牢の伊左衛門へ見舞金・綿入・布団差入れ
正月28日関前村定右衛門召捕、品川県仮牢入
2月7日定右衛門半身不随病臥ニ付宿預け
2月9日忠左衛門・伊左衛門取調
2月11日上保谷新田甚平重病ニ付出牢、間もなく死去
2月13日野中新田定右衛門牢死
2月14日上保谷新田国五郎牢死
忠左衛門・伊左衛門・元右衛門重病ニ付出牢宿預け
2月15日治助・弥左衛門・関野新田三四郎重病ニ付出牢宿預け
関前新田忠左衛門出牢間もなく死去
4月4日伊左衛門・治助・六兵衛本所へ入牢
4月8日本所より品川牢へ引越
4月17日内藤新田六兵衛牢死
4月21日治助・元右衛門・伊左衛門品川出牢
5月11日治助病気ニ付宿預け
5月27日元右衛門病気ニ付宿預け
6月社倉積立金上納
閏10月7日小川村組合社倉取立出役ニ付見込取調の評議
明治4年
2月村々三役人役義取放の申渡
品川県へ門訴済口請証文を提出
明治11年
11月社倉穀代金下渡
史料集18より作成。

 明治二年(一八六九)一一月三日、品川県から田無村名主下田半兵衛宅に出張してきた矢部貞蔵と荒木源左衛門の二人は、新田一二か村の名主たちを呼び集めて、従来の貯穀制度を廃止し、新しい社倉制度を設定すると言い渡した。この新しい社倉制度の要点は以下の通りである(以下、これをA案と略)。
①この数年不作が続き、今後どのような目にあうかわからないので、高五石以上の家は一石につき米二升ずつ、高五石以下はその暮らし向きに応じて、上・中・下の三ランクに分け、上は一戸あたり四升、中三升、下は一・五升を飢饉のための備えとして積み立てる。
②県がすべてを管理し凶作のときに放出する。
③今年は、米一斗=金一両の割で換金して納入することにさせるが、このように貨幣で納入させる。

 この地域で実施されてきた従来の貯穀制度では、村ごとに貯蔵庫を設け、比較的裕福な農民が穀物を積み立てるというしくみで、その処理については幕府の許可を必要としたものの、実質的には村役人たちが管理・運営していた。しかし、このA案では、県がすべてを管理・運営し、しかも一方的な基準を設けて貨幣で納入させるという点では新しい税金のようなものとなったのである。
 この場で、各村に対しこの基準にしたがって帳面を作成して提出するようにと命じられたが、村役人たちは、村で小前たちと相談すると答えて帰村した。相談の結果、全員が「迷惑」なことだと言って反対するので帳面の作成を中断していた。そこへ、下田半兵衛から廻状がまわってきて、六日までに帳面を提出するようにと言われたのである。六日までの作成はとても無理だったが、各村では、実際にこの県からの命令(A案)にのっとった調査を行って帳面を作成している。荒木たちが管轄下を廻村したのち田無村へ滞在していたので、そこへ一二か村からそれぞれ帳面を提出した。野中新田善左衛門組でも一一月付けで「社倉御取建につき持ち高書き上げ帳」を作成しており、そこには名主・年寄・百姓代という村方三役の印も押されている(史料集一八、一八~二〇)。
 しかし、これで新田村々が納得したわけではなかった。一一月八日、保谷新田名主伊左衛門と野中新田名主定右衛門とが連名で「最寄新田村々集会の上、篤と御評議申し進めた」いので、翌九日に堀野中の橋本宅に集まってくれるようにという趣旨の廻文を作成している。これに応じて、一二か村の名主が集まって相談した結果、「積穀」(穀物を蓄えること)については「減少願い」を出すことで合意した。具体的には、内藤新田名主治助ほか二人を惣代として、品川県役所に対して「古田新田の差別相立て、新田場相応の出穀仰せ付けられ候様」にしてほしいという嘆願を行うことに決めた。このときには、田無新田の名主も兼ねている田無村名主下田半兵衛が賛成したため、田無新田も含めた一三か村の村役人連印の嘆願書を作成し、一一月一二日に品川県に提出している。生産力の高い古村と安定した生産ができない新田村との違いを踏まえ、貯蓄のために新田村から拠出する穀物量を適正にしてほしいというもので、不利な生産条件下にある新田村の特性を踏まえた救恤(貯穀)制度が必要だとするのである。この一一月一二日の品川県あての嘆願書は、品川県に大きな波紋を与えたようで、一一月一六日にはその取り調べのため、荒木が田無村に一二か村の村方三役を集めて説得している。そこでは「積穀」減少の嘆願を荒木が聞き届け、高五石以上という基準を一〇石に引き上げ、一〇石以上の持高の者には一石あたり米二升ずつ、一〇石以下を上(一軒につき米四升)・中(同米二升)・下(同米一升五合)の三区分に分けるという案が「下書き」というかたちではあるが村々に対して示されている(「弾正台探索書」)。こののちに出てくるような実質五等級に分ける案(C案)とは微妙に異なるが、実際に作成された帳面では、五石以上一〇石未満の石高の者がすべて上・中・下に区分されている。とりあえずこれをB案としておこう。
 このあとの経過は、史料によって必ずしも整合的ではないが、こののちに古賀知県事がとった強硬な姿勢を考慮すると、県にB案を持ち帰ったものの認められず、荒木は再度村々の説得にいくのではないだろうか。一二月五日には、品川県から荒木源左衛門、矢部貞蔵の両名が田無村へ来村した。翌六日、反対の意志を表明している一三か村新田村々の村役人と小前惣代とを呼んで、もとの趣旨どおりに帳面を出すように命じているようである。村役人は、B案、もしくは持ち高が五石以上の者だけで出穀するという対案を出したが、その場では荒木たちは聞き入れなかったようである。その場に同席し一部始終を聞いていた小前たちは、悪口雑言をはきながら退席したという(『むさし野の涙』)。それはすさまじいもので、「小前一同其席を立ちながら大音にて口々に悪口致し、社倉穀積立どころか、今日今日喰うに困らあの、又は自分は軽死(かるじに)とも、親や子供にこま(困)らあの、べらぼうな、この凶年をしらぬ(知らな)いかの、夫(それ)てもよこせと云うなら、立ち退くから勝手にしろの、我等は行掛(いきが)けの駄賃だの、此様な事を云うてるわけりゃあ、すきにしろ、さあもふ用はなへ(い)から帰るべい(べし)しと、時声(ときのこえ)を揚(あ)ケ其座を立ち去り」とあるから、連年の凶作下の窮状をなかなか理解しようとしない、理解していても知県事の顔色をうかがう県の役人をさんざんに罵倒したうえで、その場から立ち去ったというのである。
 荒木は再度(七日か)田無村に来て、「困窮者の出穀免除」を認めるという妥協案を新田村々に示した(以下これをC案と略す)。これを受けて各村では、村内のすべての百姓の持高、出石高を記し、出穀割り当てを次の五等級に区分し、実際にその調査・割り当て結果を帳面にして県に提出する。①一石につき二升ずつ出穀、②軒割り四升(上の部)、③軒割り三升(中の部)、④軒割り一升五合(下の部)、⑤難渋者は免除、という五等級に分けるというものである。このとき野中新田善左衛門組で作成した「社倉御取建につき持ち高書き上げ帳」が残っている(史料集一八、二七~二八頁)。この帳面には村方三役の印は押されてはいないが、その代わり帳面の末尾に、興味深い注記がなされている。一三か村で相談して嘆願し、C案が示されたとして、五石以上の持高があっても困窮度に応じて五石以下の上・中・下の三段階に分類することで負担額を減らし、結果的には一一月に作成したものにくらべて村の負担総額は三分の一に減ったと記されているのである。この記述からは、このやりとりを記録に残そうという強い意思を感じ取ることができる。なお、表3-22①と表3-22②とを比較すると、A案を機械的に適用した表3-22①では、計六石四斗の負担であったのが、C案では五石以上の書き上げ人数が二一人から三人に激減し、代わりに負担しなくてもよい「困窮者」が新設されて二八名になっており、村全体の負担額は計二石七斗六升九合になっている。また、一〇石以上の持高であっても「難渋」なので「上の部」に組み込んだ者が四名、「中の部」に組み込んだ者も四名おり、この連年の凶作が新田村にとっては相当深刻だったことをうかがわせる。

表3-22① 野中新田善左衛門組〔A案の場合〕*野中家文書Ⅰ-4-1
野中新田善左衛門組
〔A案出穀〕
20
以上
20~
10
10~
5
5~
4
4~
3
3~
2
2~
1
1
以下
軒数合計持高合計
(単位:石)
出穀高合計
(単位:石)
5石以上〔1石に付2升〕2991(4石台ながら5石以上の割で出穀)21293.04985.861
5石以下上〔1軒に付 4升〕3313.37780.120
中〔同   3升〕231614.5240.180
下〔同  1.5升〕11771621.17810.240
越石分神社  潰百姓10.6646
(3件あわせ)(1)11114(4)(+16.7257)
合計29(3)9(1)5449850(4)309.52016.400

表3-22② 野中新田善左衛門組〔C案の場合〕*野中家文書Ⅰ-4-3
野中新田善左衛門組
〔B案出穀〕
20
以上
20~
10
10~
5
5~
4
4~
3
3~
2
2~
1
1
以下
軒数合計持高合計
(単位:石)
出穀高合計
(単位:石)
出穀者5石以上〔1石に付2升〕33111.92542.239
難渋者上〔1軒に付 4升〕131574.83570.200
中〔同   3升〕42667.50780.180
下〔同  1.5升〕641058.85040.150
免除者困窮者2144982836.6750.000
(越石3軒)(神社)(4)(16.7257)
合計29(3)9(1)5449850(4)369.522.769
森安彦「「御門訴」の展開過程」を参照し、適宜補訂して作成。

表3-23① 大沼田新田〔A案の場合〕*當麻家文書Ⅰ-4-1
大沼田新田〔A案出穀〕20
以上
20
~10
10
~5
5
~4
4
~3
3
~2
2
~1
1
以下
軒数合計持高合計
(単位:石)
出穀高合計
(単位:石)
5石以上〔1石に付2升〕151016225.3394.506
5石以下上〔1軒に付 4升〕2311723.5970.280
中〔 同  3升〕342931.5780.270
下〔 同 1.5升〕2224313228.2820.195
(1)泉蔵院(2)越石百姓(2)11.989
(+寄不足分0.053)
合計579545(2)309.7965.251
1(1)105(1)3(+12.042)

表3-23② 大沼田新田〔C案の場合〕*當麻家文書Ⅰ-4-1
大沼田新田〔B案出穀〕20石以上20~1010~55以下軒数合計持高合計
(単位:石)
出穀高合計
(単位:石)
出穀者〔1石に付2升〕11293.2641.865
難渋者上〔1軒に付 4升〕11225.8240.080
中〔 同  3升〕3324.1630.090
下〔 同 1.5升〕31449.1850.060
免除者困窮者152935126.4230
(1)(1)(1.979
越石百姓)
合計161029(1)46(1)318.8592.095
(1.979)

表3-23③ 大沼田新田〔実際の出穀〕*當麻家文書Ⅰ-4-10
大沼田新田20石以上20~1010~55以下軒数合計出穀高合計
〔実際の出穀〕
出穀者〔1石に付2升〕1121.864
難渋者上〔1軒に付 4升〕172100.400
中〔 同  3升〕11240.120
下〔 同 1.5升〕21140.060
免除者困窮者1124260
(1)(1)
合計161029(1)46(1)2.444
藤野敦「品川県社倉騒動の背景と影響」を参照し、適宜補訂して作成。

 しかし、それでも県知事古賀一平は妥協を許さなかった。一二月一八日荒木源左衛門を担当からはずしている。弾正台(だんじょうだい)の取り調べでは、国元の母親の病気で帰国を願い出たことにされているが、県知事が罷免したものと思われる。そして、新たに県権大属西村小助を田無村へ派遣する。翌一九日、西村は、新田一三か村の村役人を集めて、A案通りの出穀を命ずる。村役人たちは即答せず、返答の二二日までの日延べ願いを出して帰村するが、その嘆願書のなかで、村々の小前たちからは「連年凶作につき用意相届き難きをもって御免除願い呉れ候」ようにと強く頼まれ、荒木との間で妥協した「難渋の者を除く」(難渋の者は負担を免除する)というC案にそって作成した帳面では、今度は西村から、A案でなければだめだと言われたと嘆いている。村役人たちは両者の板挟みになって苦労するのである。このとき、田無新田はA案を受容し、一三か村の団結から脱落する。二〇日、残りの一二か村新田村々の村役人たちは、それぞれの村の小前たちにこの旨を報告したが、どの村でも小前たちの反対意見は強く、彼らは、あくまでもC案にしてくれるように嘆願することを要求した。その夜一二か村の村役人は、小前の惣代にも呼びかけて一緒に関野新田の真蔵院に集まり、今後の対策について協議し、取り決めをした。このときの取り決めは以下の三点からなっていた。
①社倉積立代金上納の件は、免除になるまで何度でも嘆願していく。
②その嘆願運動のための費用は村高で割って負担することを保証する。
③結束を維持するために、単独行動はとらない。

近世の多くの嘆願闘争でとられた行動規則と同様で、要求が認められるまで粘り強く闘うこと、必要経費は村高で割って平等に負担すること、単独行動をとらないことなどを決めているのである。この闘争が、近世の人々が幕府や藩に対して異議を唱え、自分たちの主張や要求を実施しようとして集団で行動を起こすときのやりかたと同じだったことを示すものである。近世の民衆運動の流れや到達点を継承するような性格のものだったといえよう。
 この集会のとき、新田一二か村では、「難渋(なんじゅう)のもの差し除(さしのぞ)」く(難渋な者は負担を免除する)というように、凶作などのために生活に困っている人は免除するという条件で、あとは指定された基準で命令を受ける、だからそれを認めてほしいという嘆願書を作成した。実質的にはC案である。同時に、もはやこれ以上は村役人としても「諭し方手術(さとしかたすべ)これなく」という状態であると嘆いている。彼らは、新たな惣代として鈴木新田年寄織右衛門・上保谷新田百姓嘉吉の二名を選出し、おそらく二二日に役所に願書を提出させた。翌日県では願書は受理したものの、「其方共にては相分り申さず」(おまえたちでは要領をえない)として帰村させた。逆に品川県では、この二三日、この嘆願闘争の首謀者ではないかと推測をしたのであろうか、関前新田名主忠左衛門・上保谷新田名主伊左衛門・野中新田与右衛門組名主定右衛門の三名に出頭命令を出している。この呼び出しは「病気に候得バ駕籠にて罷り出べく」とあるように、病気なら駕籠を使ってでも出頭するようにという厳しい命令だったが、実際には定右衛門は病気のためにどうしても出頭できず、代わりに息子の忠蔵と組頭権兵衛が出頭している。こうして、首謀者とみなされた三名(定右衛門の代理も含めると四名になる)は、二四日に品川県庁に出頭するのだが、何も指示がなかったため一旦帰宅し、再度二六日に出頭する。そして、この日、古賀知事、牟田口大参事、岡本小参事ら県の官僚たちが居並ぶなかで、A案を受け入れるようにと厳しく命じられる。しかし彼らは頑として承諾しなかったので、県の側では、忠左衛門と伊左衛門の二人を馬喰町旅人宿秩父屋清助宅に「宿預(やどあず)け」とした。一般的には、こうした「旅人宿」は、村役人が御用あるいは訴訟・嘆願などのために江戸の代官役所に出張するときの宿泊場というだけでなく、役所の人間とも関係を持っている場合も多く、訴訟などのときには村惣代たちにアドバイスを与えたりする存在でもあった。ここへ「宿預け」されるということは、宿の責任で身柄を拘束するという、実質的な軟禁を意味した。