二七日、忠左衛門・伊左衛門が「宿預け」に処置されたことを聞いた一二か村新田村々では、村役人たちが関野新田の真蔵院に集まり、「集団直訴」の実行を決める。翌二八日には、各新田村から小前百姓たちが田無村字八反歩へ集合し、第一回目の集団での直訴がはじまった。このときの直訴の願意は、①社倉出穀を荒木との妥協案C案にもとづいて実施すること(実質的な減免となる)、②宿預けの二人をすぐに釈放することだった。彼らは、「此上はとても通常の嘆願書差し上げ候共、御採用はこれ有る間敷につき、十二ケ村小前一同二三日分弁当ヲ用意致し、蓑笠に出立、明二十八日品川県へ直に門訴申すべき義に決心致し」というように、通常どおり嘆願書を差し出しても、そのとおりになる可能性はなく、一二か村の小前百姓たちは二、三日分の弁当を自分で用意し、蓑と笠(菅笠)とを身につけて、明朝二八日に品川県へ直訴しようと決断した。近世の百姓たちは、集団で自分たちの要求を通そうとして幕府や藩の役所などに訴え出るなど、百姓一揆を起こすときには、いわば百姓のトレードマークと考えられていた「蓑笠姿」で鍬や鎌あるいは棒などのもっとも使い慣れた道具(農具)を持って参加することで、その行動が百姓たちにとっては正当な行動であることを示そうとしたが、ここでも近世以来の百姓一揆の姿(「出で立ち」)で出発したのである。
この様子は品川県から田無村に出張してきた福永大属、飯沼少属にも伝わったのであろう。福永らは、嘆願内容を受理する(C案で、実質的に減免する)、拘束している二人を釈放するということを約束するから直訴はやめるようにと説得する。田無村名主下田半兵衛にも、間にたって説得させている。こうして二九日、新田百姓一同は、C案による出穀(減免)と宿預けの二人の即時釈放とを要求する嘆願書を改めて提出し、福永たちが「宿預両人は晦日に相違無く帰村申し付くべく旨」と「社倉出穀の義も百姓共出願通り」と約束したため、集団直訴は中止された。
しかし、翌明治三年正月一日になって、一二か村の側から軟禁中の忠左衛門・伊左衛門をむかえにいったところ、釈放されないどころか、役人たちは面会にも応じようとはしなかった。六日になると、今度は県の側が一二か村村役人を召集し、翌日村役人たちは出頭した。八日になって、彼らは、県庁で、A案を受諾するように強要されたが、それを拒否したために、今度は出頭した村役人全員が宿預けにされた。九日に、県から再度説得されるが、これに対して村役人たちは、小前百姓を説得するために二五日までの日延べを願い出る。県もこれを了承し、一〇日には、宿預けの二人も含めて全員の帰村を認めた。この措置は、次に述べるような小前たちの動きを察知したからだったと思われるが、間に合わなかった。
村方では、七日に県庁へ出頭した村役人全員が、県側から繰り返し押し付けられたA案を受諾しなかったために宿預けになっているという情報を得て、ふたたび直訴の動きを起こしていたのである。「まだ御免ナラザルハ官ニ於テ人民ヲ偽リタルニ付、一同御役所ヘ直訴セントナス」すなわち、村役人たちがまだ釈放されないのは、官(品川県)がわたしたち人民をだましているのだとして、品川県庁への直訴の準備をするのである。
ここで注目すべきは、新田一二か村の側では、以前から宿預けになっていた指導者の関前新田名主忠左衛門・上保谷新田名主伊左衛門と出頭し宿預けにされた他村の村役人たちに代わり、関前新田名主忠左衛門の息子庄司・上保谷新田名主伊左衛門の息子虎之助たちを新たな指導者として選出したことである。新たな代表を選出し、あくまでも闘うことにしたのである。九日には、結集を呼びかける廻状が、鈴木新田村役人代理である龍平によって村々に出された。