翌一〇日明け六つ時(午前七時)頃から、田無村字八反歩には、蓑笠に身を固めた小前百姓たちが、四、五日分の弁当を持参して続々と集合しはじめた。彼らは、各村ごとに勢揃いして、夕方七つ時(午後四時)には、品川県庁へ向かって繰り出した。総勢数千人といわれるが、一二か村全体の家数が五五三軒だったので、実際は五、六〇〇人程度だったものと思われる。中野村天神前(現中野区)で日が暮れたので、そこからは夜道となった。そのため、各村二人ずつのリーダーを決め、隊列を崩さないようにして行進した。帰村途中でこのことを聞いた村役人たちは、「門訴」だけはやめさせようと手を尽くすが、成功しなかった。政府は東京の口々に軍隊を派遣して阻止しようとしたため、百姓たちは警戒線をかいくぐって、ようやく日本橋浜町河岸の品川県庁前に到着した。
このあと、冒頭でも紹介したように、百姓たちが門の外から必死で嘆願を繰り返しただけで暴力をふるおうとはしなかったのに対し、県の側では武装した兵隊が彼らを攻撃して多くを負傷させ、五一人もの人びとを逮捕したのである。村の側では、一二日の間に、四六人が牢に放り込まれたと考えている(史料集一八、五八頁)。