厳しい尋問と処罰

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一三日には、上保谷新田元右衛門の婿である峯吉が上保谷村内で逮捕されるなど、これ以降関係者の捜索・逮捕がはじまる。同時に、一三・四日には村々の村役人が品川県に逮捕された者たちを釈放してほしいと嘆願しており、品川県役人三嶋環は取り調べが済んだら順次引き渡すと答えている。しかし、釈放された者たちの話を聞くと、彼らは、東京府内の地理がわからず、一銭も持たず、空腹のうえに薄い着物しかもっていなかったので寒さに苦しんだという。そこで、村役人たちは、郷宿にとどまって、釈放されたら暖かい着物と食事とを与えようと準備していた。一八日には、県知事以下、内藤新宿に出張して陣を構え、そこで吟味をはじめていた県の役人に対して、梶野新田名主藤三郎ほか七か村の村役人たちが連名で次のような嘆願をしている。逮捕された小前たちのなかにはいまなお嘆願をする者もいると聞いているが、釈放してくれたら二度と今回の御門訴のような徒党はさせないから、一日でも早く釈放してほしいというのである。すでに一七日には、関前新田忠左衛門、上保谷新田伊左衛門に対し、「痛吟味(いためぎんみ)」(拷問)が行われるなど、ひどい取り調べがはじまっていた。関口という役人は、県知事から、一二か村の新田村々の人びとに対して発砲し、たとえ新田が野原に戻ることがあってもこの新しい社倉という規則は必ず確立するのだと言われていると、村役人たちを脅すのであった。
 一七日夜には内藤新田治助、大沼田新田名主弥左衛門が捕まり、一八日夜には上保谷新田の元右衛門・国五郎(国蔵とも)兄弟が自首したが、三嶋環はこの兄弟が「御門訴発起人」(御門訴を先導した者)だとして、両股の間に裂傷ができるような厳しい拷問を加えた。一九日には、忠右衛門・伊左衛門・治助・弥左衛門を縄で縛ったままで田無村の現地取り調べ本部まで連行するとともに、野中新田の名主定右衛門を召喚し、忠左衛門と定右衛門が上保谷新田伊左衛門にこの嘆願を持ちかけたのかと厳しく追求した。定右衛門は、このとき六〇歳で、昨年六月に脳卒中を煩っており、体の半分の自由が効かなかったにもかかわらず収監されたのである。県は、一九日には、一二か村に「告諭」と記した高札を渡したが、そのなかで定右衛門・忠左衛門・伊左衛門・治助・弥左衛門・元右衛門・八右衛門・国五郎の八名を首謀者だと明言しており、実際にこの者たちの取り調べは厳しいものとなった。この日、上保谷新田名主伊左衛門の妻しか(志賀)と分家の百姓代嘉吉の息子東太の二人を逮捕し、行方不明で捜査中の息子虎之助についてなにか知っているだろうとばかりに拷問した。しかは股肉裂傷、東太は気絶した。

図3-66 小平に残された「告諭」の高札の写本
明治3年正月「御門訴一件ニ付村々建札写」(史料集18、p.40)

 二一日までには、大多数の参加者は釈放されたが、高札に首謀者として名前を載せられた者たちのほか、上保谷新田甚平・同新田峯吉・関野新田三四郎らが牢に残され、二八日には新たに関前村名主定右衛門が捕縛された。この定右衛門は、二二日、門訴の際に逮捕された同村の小前百姓たちが釈放されたとき、一人につき「銭三〇〇文、半紙四、五枚ずつ」褒美として渡している。近世の村では、直訴(一揆)などに加わって行動することは、村の夫役(村人が勤めるべき公的な役)として認められており、その分の金銭が支給されることもあった。定右衛門はそれにならって、関係者の捜索が続いているさなかだったにもかかわらず、村の公的な役負担として認定し、支給したのであるが、それを見とがめられたのである。
 極寒の牢屋のなかの生活も厳しく、薄い衣類のまま寒さにふるえる状態が続いたことで病気になった者もいた。伊左衛門は、正月二二日以降毎日のように、綿入れ・かいまき・布団を差し入れてくれるようにという書状を小川村の村役人や親類に出しているが、実際に防寒の寝具が手に入ったのは二六日であった。翌明治三年二月に弾正台ではこの一件について、事件の経緯だけでなく品川県の取り調べ状況についても詳しく調査しているが、そのなかで、弾正台の役人が立ち会うことになっていたのに品川県が勝手に取り調べ、かつ入牢中に衣類がはぎ取られたために寒さで病気になって死亡した者がいることなどについて、知事らを追及している。知事たちは知らないと言い逃れるが、弾正台の係官は、それがたとえ牢名主の仕業だったとしても事実であり、県の監督が不行き届きだったと判断している(『田無市史』第二巻、一七九頁)。女性の拷問についても問題にしており、この取り調べは政府関係者にとってみても不法なものであったことをうかがわせる。

図3-67 牢内の平井伊左衛門の差し入れ依頼明治3年正月「覚」(史料集18、p.43)


図3-68 弾正台探索書(国立公文書館所蔵)

 なお、二月一一日には、上保谷新田名主の伊左衛門と一緒に入牢していた甚平が重病になり、牢から出されたが死亡した。一三日には野中新田名主定右衛門が、一四日には上保谷新田国五郎が、相次いで牢死した。一四日には、忠左衛門・伊左衛門・元右衛門の三人も重病となったため牢から出され郷宿に預けられたが、忠左衛門は死亡した。気の毒だったのは、上保谷新田の年寄六兵衛である。彼は、四月四日、病気が全快した伊左衛門・治助の差添人として県へ出頭したのだが、そのまま逮捕され、おそらく拷問を受けたのであろう。四月一七日に牢死しており、この件ものちに弾正台からはやり過ぎだと判定されている。
 このころになると、品川県の役人たちも事件の首謀者や発端を確定し、その全容を示す必要があったから、伊左衛門や元右衛門らへの拷問のすえ、調書に「爪印」を押させている。結局、こうした拷問を経て、明治四年の二月に最終処分が決まったが、最後に死亡した六兵衛も含めた一〇名が牢死したうえ、村役人たちを中心に処分がくだった。詳細は、表3-24に示した通りだが、ここでとくに処罰されなかった村役人たちも全員が、名主・組頭・小前惣代などの村役人としての役職を取り上げられた(免職)。こののち、村の側では、処分を受け入れるという証文を出しているが、一方で新たな村役人の人選を行って村の運営を継続させるのである。
 
表3-24 明治4年2月27日御門件判決結果一覧
村名役名など名前処罰理由
上谷保新田組頭元右衛門徒3か年伊左衛門悴寅之助に頼まれ明治3年正月10日強訴し逃げ去り、伊左衛門穴蔵に隠れていた始末、不届による
名主伊左衛門名主役取放の上・杖70野中新田定右衛門から頭取を頼まれ承諾しなかったとはいえ、始終の挙動不届による
内藤新田名主治助名主役取放の上・笞30定右衛門取次の意にまかせ、徒党連判し、強訴の始末に至り不埒による
大沼田新田名主弥左衛門名主役取放の上・笞30定右衛門取次の意にまかせ、徒党連判し、強訴の始末に至り不埒による
梶野新田名主藤三郎名主役取放の上・笞30徒党連判に調印し、不埒による
柳窪新田名主惣次郎名主役取放の上・笞30徒党連判に調印し、不埒による
関野新田名主清十郎名主役取放の上・屹度御叱老衰とはいいながら悴邦蔵を名代として徒党連判し、不埒による
組頭富蔵組頭役取放・屹度御叱邦蔵へ差添ながら心得方無念につき
清十郎悴邦蔵屹度御叱親清十郎の名代とはいいながら、徒党連判に調印し不埒につき
野中新田
六左衛門組
組頭喜三郎組頭役取放・屹度御叱徒党連判に調印し、不埒につき
野中新田
善左衛門組
組頭藤右衛門組頭役取放・屹度御叱徒党連判に調印し、不埒につき
鈴木新田組頭竜平組頭役取放・屹度御叱徒党連判に調印し、不埒につき
大沼田新田半兵衞組頭役取放・屹度御叱徒党連判に調印し、不埒につき
戸倉新田年寄市三郎年寄役取放・屹度御叱徒党連判に調印し、不埒につき
野中新田
与右衛門組
百姓代八右衛門百姓代取放・屹度御叱百姓代を勤めながら、門訴に加わり、苦情申立、不埒につき
*森安彦「「御門訴」の展開過程」を参照し、適宜補訂して作成。
*   は小平市域の村々