品川県知事古賀一平の新しい施策の評価

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すでに説明してきたように、明治二年(一八六九)一一月、田無村に出張してきた品川県役所出役飯沼吉次郎が、従来の貯穀制度の廃止と、新しい社倉制度設定について申し渡したところからこの一件がはじまるのだが、この申し渡しの趣旨は、県が社倉米の管理をすること(のちにはこの運用を豪農に委託する)、米納でなく金納とすること、上層農民に限られていた積み立ての義務を下層にまで広げたことの三点で従来の社倉制度とは異なるものだった。これに対して、とくに新田村落では、古田村落に比べて地味が悪く、金肥を大量に投入しなければ収穫が安定せず、これまでもさまざまな支援を受けてきた。しかも近年の不作で非常に困窮しており、全村一律の負担は不可能であるとして猛反発する。実質的な年貢増徴政策の一環であるとしか思われなかったのである。
 もっとも、県知事の古賀一平は、明治二年八月以降同郷の大隈重信が大蔵省と民部省が合併した民部大蔵省を主導して展開する地方行政(政府財政の安定化は、当面は農村の収奪強化による税収増にもとづくが、同時に地方の殖産興業政策を行うことで安定的な再生産をめざす)政策を推進しようと、大井に県営ビール製造所を建設したり、東京周辺の窮民救済としての養豚業や培養会社など民間産業の育成、すなわち下からの殖産興業を促進したりする。また、意欲的に村々を視察した。この大隈の政策自体は、多くの地方官から非難され明治三年七月の「民蔵分離」(民部省と大蔵省の再分離する)へとつながる。しかし、ここでは、少なくとも単純な年貢増徴政策というよりは、下からの殖産興業とをリンクさせようとしていること、東京およびその周辺にとっては窮民救済政策(都市及び都市周辺の治安対策)でもあったことに注意する必要がある。

図3-69 古賀一平履歴書(早稲田大学図書館所蔵)