関前村・関前新田名主忠左衛門は、田無村組合の小惣代を勤めるなどこの地域のリーダー的存在で、明治二年(一八六九)九月に品川県に建言書を出し、この一件の首謀者の一人とみなされ牢死することになった村役人である(森安彦「維新権力と民衆の対応」)。彼は、建言書のなかで、農民層分解(「幸民富豪家」=「高持ちの幸民」と「飢渇貧民」=「小百姓」・「小作」、あるいは「大家」と「小人」)が進む各地の村落で、(世直し)一揆が連続して起こっていることに危機感を持ち、安定的な村落秩序に戻すためには、質素倹約をもとに生活改善や村落秩序の回復をはかるとともに、自らの村を自力でまもるために「鎗剣術」の稽古を行うべきだという。そして、「市在国々共彼幸民豪富家、海岸・川附等の大商人御国恩はもちろん、奇特筋相弁、飢渇貧民扶助の実心顕れ候はば、御国家安泰の基と恐れながら存じ奉り候」として、幸民富豪家が飢渇貧民を扶助することで国家が安泰になると説く。三浦氏の流れを汲む武士の家柄で、大坂夏の陣に豊臣方として参加し、関村に帰農してから新田開発にかかわったという由緒を誇って武術も嗜み、建言書を出すほどの知識教養を持っていたがゆえに、県の政治に対する批判的な認識を持つようになったものと思われる。もっとも、経営的には、新規に質屋渡世を営むとともに酒・醤油・酢・油・荒物・穀類の商売もしたが、幕末にかけて急速に没落し、経済的基盤が小前たちと変わらなくなったことが、小前たちの主張を代弁するかたちでこの闘争を組織することになった直接の動機かもしれない。
小平市域では、野中新田与右衛門組の名主高橋定右衛門が首謀者と目されている。彼は、寺子屋の師匠としてこどもたちを教育し、村人の信頼を得ていただけでなく、文久二年(一八六二)一〇月には、韮山代官江川太郎左衛門管下の幕府領から、三浦半島の海防を命じられた熊本藩の領地にされようとしたとき、先頭に立って反対闘争を組織し、老中水野和泉守忠精に駕籠訴したことがあった。こうした経験があったためか、品川県では、一二月二〇日、関野新田の真蔵院で開催された一二か村集会の中心人物だとみなし、関前新田名主忠左衛門・保谷新田名主伊左衛門らとともに出頭を命じていたのである。しかし、本当に脳卒中を煩っていたためにこのときは身代わりを出している。結局、収監され、明治二年二月七日、野中新田与右衛門組の組頭や家族たちがせめて郷宿で療養させてほしいと品川県に嘆願したにもかかわらず、許可されず、一三日に牢死するのである。『むさし野の涙』の著者である内藤新田の神山平左衛門は、一五日に葬式が行われたときの様子を「実に親属そのほか一同の者相嘆き、ともに落涙致さざる者は一人もこれ無きほどにて、実に気の毒千万の至りなり」と列席者一同が嘆いている様子を描いている。
小平市域でもう一人注目しておきたいのが、大沼田新田名主當麻弥左衛門である。大沼田新田では飛び抜けた高持ちで、酒造業・質屋・水車経営などに従事しているが、この御門訴事件では終始一貫して村人(小前層)の側に立って願書を出すなど、小前たちの意見を代弁している。すべての村役人層が罷免されるなど、最後まで村役人が小前の立場に立ってこの闘争を組織したこの地域の特性を示すものと思われる。