この地域では、忠左衛門のように小前の要求を代表するような村役人に対し、違うタイプの村役人も現れた。田無村名主下田半兵衛は、地域の教育や文化活動にもかかわる名望家だが(『田無市史 通史編』)、この御門訴事件に関しては県の社倉担当の「勧農方手伝い」に就任するなど、県の政策を推進する側に立ち、田無新田を戦線から離脱させたものと思われる。また、布田組合惣代を勤める上布田宿の原泰輔(豊穣)は、父が品川県勧農方役人となる。そして、明治二、三年にかけて、自ら養豚業を営むとともに、品川県が集めた社倉米を借り受け、それをもとに殖産興業を推進するが、産業資本としては成功せず、結局地方官吏となる(藤野敦「明治初年、東京隣接直轄県政と惣代農民の経済的展開」)。この原のような豪農たちの行動は、農村内、あるいは農村間に分裂と対立をもたらすことになった可能性がある(豪農層の分裂)。そして、そののち県の実務官僚に採用されるなど別の道を歩むようにみえる(政治的分裂)。なぜ、同じ地域の村役人で、このような違いが生まれるのかについての検討は今後の課題となろう。そして、たとえば下からの殖産興業を推進する原豊穣のような在地の有力者たちがどのようなかたちで自由民権運動にかかわっていくのか(かかわらないのか)についても考えてみる必要があるように思われる。