この「御門訴」で村人たちは、社倉金の減額に成功した。かつての救恤制度(養料金制度)の継承が、大隈重信らの国家財政優先の地方支配の下で認められたともいえる。しかし、その代償は大きく、処罰された人たちも少なくない。拷問された人、牢死者も出た。しかも、このあとの村運営は、「従前三役人共今般役儀取放」とされ、各村には組頭一名を置くことが認められるにとどまった。百姓代の人数は「村々便宜」に任されたが、村運営が制約されたことの持つ意味は大きく、この「記憶」は長く伝えられることになる。たとえば、後年この犠牲者の碑を建てたときには、「武門の専治を受けるの余百度、なお吏人改めず、あるいは威を挟んで民に臨み、これを待つにほとんど奴隷者のごとくあり」と記し、自由民権運動の前提として捉えようとしていることがわかる。