近世最後の民衆運動としての御門訴事件

804 ~ 807 / 868ページ
最後に、近世の民衆運動という観点から注目すべき点を列挙したい。
(1)途中で離脱する田無新田を除く一二か村の新田村の村役人は、①費用負担は村高に応じて公平に分担し、②最後まで嘆願を行い勝手な行動はしないという趣旨の議定書を作成することで嘆願闘争を組織しており、近世の非領国地帯(藩領・幕府領・旗本知行所などさまざまな所領が入りまじっている地域。江戸周辺・畿内・出羽村山地方などいずれも幕府領が設定されている。)でしばしばみられるような、個別の村をこえた合法的嘆願闘争と同様である。こののち村役人は県に拘束されるが、新たに村役人の息子が惣代になるなど、指導層を中心とする村内の結束は固かった。
 (2)合法的嘆願闘争で聞き届けられない場合、つぎに試みられるのが代表による直訴(駆け込み訴=門訴、駕篭訴)である。ここでは、代表を中心におそらく各家から一人ずつ人を出すようなかたちで集団を形成し、一同で品川県庁に直訴するが、注目すべきは、まず呼びかけの廻状が出され、指定された時間・場所に簑笠姿で集合したことである。しかも、はじめの直訴のときは途中で引き返したが、二、三日分の弁当を、実際の「御門訴」のときには五、六日分の弁当を持参している。集団的な直訴の場合は途中から統率が乱れて、押し借りや酒食の強要をするようになる場合があるが、このときにはそうした行為がなかったのは、このような弁当の準備にあったともいえる。これ以外にも、中野村天神前で日が暮れ、そのあとは夜道の行進となったので、各村二人のリーダーを決め、隊列を崩さないようにして行進している。統率もとれており、近世後期の百姓の訴願闘争のあり方を基本的には踏襲していると評価できる。
 (3)したがって、彼らは自分たちの行動が違法であるとは認識していなかった可能性が高い。百姓たちは、蓑笠姿で門前に並び、「武蔵野新田十二ケ村百姓申し上げ奉り候、連年凶作打ち続き夫喰(ぶじき)にも差し支え、必死ト難渋仕り候に付き、何卒(なにとぞ)御慈悲を以て社倉穀積み立て方皆免除成し下され度」と歎願したところ、門内から「何れも聞き済み申すべく候に付き、門内へ一同這入(はい)り申すべく」と誘われた。百姓たちは「皆免除(みなめんじょ)御聞き届け相成り候上は門内へも這入り申すべく候得共」、門内に入ると「門訴」ではなく「強訴」だと判定されることをおそれて入ろうとしなかった。すると門内から「然(しから)ば其(そのほう)方共は知事様を是へ引き出し候積りか」という声があり、百姓たちが「左様に御座候」と答えたところ、門が開いて騎馬二頭を先頭に多数の兵士が「不届を至極成(しごくな)る百姓原(ひゃくしょうばら)、太刀の続く丈(だ)けは切り捨よ」という命令のもと一斉に切り込んできた。百姓の集団はちりぢりになり、多数が負傷し、五一人がその場で逮捕された(「むさし野の涙」『武蔵野市史続資料編1』)。百姓たちは、この門訴自体は、暴力を伴ってもおらず、門のなかに押し入らなければ、許される行動だと考えていたわけで、それに対して県の側がいきなり暴力的な行動に出たことにとまどい、あっという間にバラバラになって逃げざるをえなくなったのである。
 (4)逃走前までの統率のとれた行動は、村ぐるみの闘争だったということともかかわる。関係者の逮捕がはじまると、村役人からは「元右衛門外(ほか)五人の者素(もと)より困窮、殊(こと)に右の者共日々の稼方(かせぎかた)を以て其日営み居り候儀に付き、親妻子共路頭(ろとう)に袖乞(そでごい)より外これ無く」などという内容の釈放嘆願書が出される。また、逮捕された小前百姓たちが釈放されると、関前村下組名主定右衛門は一人につき銭三〇〇文、半紙四、五枚ずつを「褒美(ほうび)」として渡しており、この直訴に出るのも、村の作業に出るのも同じ村の夫役(村人が勤めるべき役)だという共通の理解があったものと考えられる。さらに、この「御門訴」事件に要した費用(入牢費用、宿預け、出府したとき)は村で分担しており、この点でも近世の村がつくりあげてきた機能や性格を継承していると評価できる。そして、実際にこの村が機能し続けることは、以下の二つの例からもよくわかる。大沼田新田では、百姓たちが数日集会を開いて、すべての村役人が罷免されたあとの村役人を決めようとしたがなかなか決まらず、いつまでも村役人を決めないという状態では「御用村用」に差し支えるとして再度集会を開いた。その場で、村の運営にかかわる議定を取り結び、それを新たに選出した村役人に約束している。この議定のなかでは、名主給(ここでは組頭役が名主を代行する)の額や役高として三五石までは高割物を掛けないで優遇すること、御用や村用はもちろんのこと村役人から命じられたことについてはきちんと時刻通りに行うなどと約束している。しかし、それと同時に、臨時御用のときに東京へ行く費用など、村役人が村のために使う費用の節約を求めるなど、選んだからすべて言うことを聞くというわけではなく、あくまでも村役人と村人(小前たち)との間で双方が納得した取り決めであったことを示す。今一例は,明治四年(一八七一)五月二〇日になって、罷免された村役人が所持(保管)していた村関係の公用書類(検地帳・高反別根付け帳・緒年貢増永帳・小前印鑑帳・御年貢皆済目録・村絵図面・伍組連印帳・寺籍(宗門人別帳)・戸籍・奉公人名録)を書き上げ、自分たちが選んだ新村役人にそれらを預けていることである。この時点での村役とはなにか、その際どのような公文書を保管するのかなど、この時期の村政のありかたを考えるうえで貴重な資料である。旧村役人たちが、村全体の利害を代表して闘い、村役人職を罷免されたとはいえ、新しく村役人を選ぶなかで、小前たち一般の村人も村の運営に深くかかわるようになっていることを示しているのである。

図3-70 「議定一札之事」
明治4年(當麻家文書)

 この御門訴事件は、幕末から維新にかけて、この地域で起こった大事件であり、その犠牲も少なくなかったが、この事件のなかで少なくとも一二か村の新田村々はその結束を固めることができた。持高の多寡などによって、村人の間での格差が次第に大きくなっており、個別の諍(いさか)いはあったにせよ、村の運営に小前たちも参加するようになっていたし、村役人もこの小前たちの意向を無視した行動を取ることができなかった。かかった費用についても、村入用同様、支出項目を調べたうえで持高に応じて割り合うなど、公正で平等な負担方法をとっており、近世から近代に移行する時期において、村を含めた地域社会(ここでは新田一二か村のまとまり)がその運営に関しては、少なくとも村人には開かれていたことに注目しておきたい。そして、この一件のなかで、新政府の政策、ひいては新政府への批判も生まれ、中心的に自分の村の運営を担う人びとのなかから多摩地域の自由民権運動にかかわる人びとも出てくることになるのである。