「序章 村ができるまで」は、現在の小平市域に人びとが定住する前、まだ「原野」であった武蔵野のあらましについて述べた。武蔵野の原野といっても、人びとの痕跡はあった。ここではとくに、道あるいは道を通行する人びとのあり方を象徴的に扱っている。各時代の政治権力の推移にかかわる道は、古くは武蔵国府に通じる道や鎌倉への道が重視されて、南北方向に人びとが通行した。その後、戦国期をへて、徳川家康が関東に入部すると、政権所在地である江戸との関係が重視され、人びとの動きは南北方向から東西方向へと変化した。江戸城や江戸の町並みが整備されると、江戸の周辺地域に位置していた村々は、物資輸送や食糧供給地として、必然的に江戸とのつながりを強化していく。江戸では水の供給も重要な課題となり、飲料水確保のために玉川上水が開削されたが、これは江戸のみの問題ではなく、武蔵野地域そのものに人が定住する要因になった。また各地域では「土豪(どごう)」とよばれる有力者が新たな土地を求め、積極的に開発に乗り出す素地が形成されていた。