この地に人が定住する歴史、すなわち現在の小平市域の歴史は近世からはじまる。「第一章 村ができる」は、この地に多くの人びとが移住し、開発を行い、開発場が村としてのかたちを整えるまでの過程を述べたものである。
一七世紀半ばに小川村が開発され、一八世紀、享保年間(一七一六~三六)には八代将軍徳川吉宗による新田開発政策を契機に、さらに五つの「村」ができた。このうちの一村、野中新田は三つの組に分かれたが、年貢収納の単位、村役人の置かれ方などをみれば、各組は「村」と同等の機能を持っていた。享保期には六つの「村」ができたといえる。第一章は村ができていくすがた、開発の過程を中心にした内容であり、身分や出身地もさまざまであった開発人たちのすがたを述べることが主要なテーマの一つである。また、開発人たちは開発場をえたのち、村を成立させるために多くの入村者を集めていったが、この入村者たちにも焦点をあてた。
村の開発は、開発人がさまざまであったと同様、開発場の集積の仕方、入村百姓の出身地、土地面積や地目ほか、それぞれが個性あるすがたで進展していった。そのため第一章では、各村の開発にかかわる特徴的な年代までを述べることとし、また、成立後の村の概要についても触れた。
なお、おおよその目安で考えた場合、一八世紀後期、具体的には明和・安永年間(一七六四~八一)が、各村がある程度、村としての体制を整えた時期と考えられ、この地域における画期の一つといえるだろう。たとえば小川村では土地所持のあり方、小川新田では組頭役の固定などの画期がみられ、そして大沼田新田では本村の名主が新田へ移住して村役人が固定する時期、廻り田新田は百姓の定住の時期でもある。これらは第二章の村の存立と安定化への前提としてとらえられる。文書の残り方をみても、大沼田新田や廻り田新田の宗門人別帳などが、この時期以降から残されていることは象徴的である。
また、現在の小平市域に定住した人びとが、享保期に成立した周辺の新田村のなかでも比較的多かったことは、大きな特徴の一つである。さらに寺院の引寺の事例も多く、入村百姓たちが寺院に対する高い意識を持っていたことも想定された。
第一章では、近世全体にわたるテーマとして、村々を支配する幕府代官と、尾張藩鷹場の問題など、支配とのかかわりについて、幕末期までをふくめてすべての時期を扱った。とくに一八世紀の新田開発政策は、開発人あるいは村の力だけではなく、幕府権力や役人による推進力が背景にあったことも注目すべきであろう。また幕府や尾張家の鷹場役人が村々を巡回して宿泊や食事をするなど、鷹場であることは、村にとってはより多くの負担にもなっていた。代官支配、さらには尾張藩の支配をも受けるかたちであり、これらの状況が村に何をもたらしていたのか、重要な問題である。