「第二章 村がなりたつ」は、一八世紀以降、開発によって成立した村を引き続き存立させ、安定的なくらしを目指す人びとの努力を、さまざまな角度から叙述した。内容は多岐にわたるため、ここでは村の存立、安定化のために努力した人びとのすがたが象徴的にみられる点を抽出しておこう。
開発の中心であった開発人は、村役人となって村をまとめるためにさまざまな努力をした(第一節)。大沼田新田の開発人の一人、伝兵衛が開発当初、「村の存続のために努力している」と百姓たちから評価されていたことは象徴的である。また小川村のように組頭を決定するにあたり、名主、百姓がそれぞれの希望を互いに重視するなど、村人の関係を円滑にするような意図をみせていたことも注目される。さらに「年寄」と呼ばれるような開発初期の入村百姓も、近在遠方からの百姓をまとめ、村の基礎をささえていた。
領主への負担が村請制(むらうけせい)によって行われていたなかで、年貢諸役の確実な収納は、領主との関係で最も重視されたことである(第二節)。小川村では年貢収納が組単位で行われるなど、村のなかの組が自律性を強めた。さらには村民同士の助け合いも、しだいに開発人のみに依存しないようになっていった。
一方で、村の安定化は、村や百姓のみの力によって実現されるわけではなく、支配領主の保護も必要であり、これが「御救(おすく)い」というかたちで示された(第三節)。享保年間(一七一六~三六)の武蔵野新田開発以後、元文年間(一七三六~四一)までは、代官上坂安左衛門による公金貸付や貯穀政策など新田の助成策が打ち出され、新田村の安定化がはかられた。小川村では、これらの政策が名主を中心とした助成や振興策となり、その後、百姓が自ら救済を行う主体となっていった。幕府役人や村、そして村のなかでも村役人のみではなく小前百姓も、それぞれ程度の差はあるにせよ、村を存続させようとする意識を持っていたことは注目される。
百姓の救済への意識は、各家の存続の問題にもつながっていた。村の存続のためには、百姓の家それぞれの安定的な存続が必要となる(第四節)。村請制のしくみのなかでは、一軒でも家が欠けることはほかの百姓の負担となる。百姓は家の存続、相続のために婚姻や養子縁組などへの努力を行っていた。女性当主に家を任せることも同様であった。
また、村や人びとの生活の維持には、心のよりどころも必要となった(第五節)。新田開発時には、寺院や神社の創設自体が村の安定へつながるという認識があったことで、引寺が積極的に行われたのである。当時の人びとは、不安定な生活の支えとして多様な信仰心を持っており、宗教は生活、生産活動と密接にかかわっていた。
そして武蔵野地域の人びとの生活にとって必要不可欠な問題が、水の確保である(第六節)。玉川上水の開削によって人びとは生活が可能となったが、そのまま安定した生活ができるわけではなく、水をえるためには相応の負担が課されていた。また水の利用には、周辺村々との協力が必要であり、一村にとどまらない地域間のつながりや協力のあり方も示されていた。
こうして人びとは、水や生産力の確保、自己の権利や村の権利を守るために奮闘した(第七節)。百姓相互の事件が発端となった村境をめぐる争論は、村全体さらには周辺地域を巻き込んだ、村の権益を守ろうとする人びとの象徴的な争論であった。また、大沼田新田の争論のなかで、村役人の対立が個々の家の相続にかかわってしまうという問題を述べていた百姓の発言も注目されよう。百姓たちは自らの権利獲得を、村のために行っていると主張することもあったのである。
また嘉永年間(一八四八~五四)に、村々が川越藩領になることを避けるため、千人同心株を獲得しようとする動きがあったことも注目される(第八節)。小川村では、そのための費用を村の負担金として捻出した。これは村が自分たちの生活を守るために、武士身分をえようとした行為であった。
そして、支配との関係、村運営、訴訟のほか、あらゆる場面で求められたのが、文書の作成と保管である(第九節)。村運営において、村役人は文書を正しく作成し、確実に保管、引き継ぎすることを求められた。また百姓の印は近世の文書社会の浸透と同時に普及したが、文書への捺印様式は各村でそれぞれ独自のすがたもみられ、さらに小前百姓は文書への捺印を通して、自らの意思を積極的に主張するようになっていた。