「第三章 村がかわる」は、近世後期、新しい時代をむかえつつあったこの地域の変化のすがたを述べている。第二章と同様、内容は多岐にわたるため、とくに村の変化のようすが象徴的にみられる点を抽出しておこう。
一八世紀後半以降、百姓たちは何とか生活を維持できるようになり、村は一旦安定化したようにみえた。この頃、武蔵野の村々では、金肥の導入で生産力が高まると共に、商品・貨幣経済が浸透、百姓たちの生活の高まりがみられた。しかしこうした生産・生活の高まりは、大きく成長する者(豪農)、その一方で没落・困窮する者を生み出した。一九世紀前半には、村の百姓の間で、「持つ者」と「持たざる者」の格差が生まれたのである(第一節)。
近世後期には、村役人や家の当主以外の村人、女性や子どものすがたが具体的にわかる史料も多くみられるようになる。たとえば、人びとの日常的なすがた、教育に関する史料である(第二節)。また、彼らが詠んだ俳句なども、当時の人びとの感情を表現したものとして注目される(第三節)。さらには旅先での経験、街道や宿場のようすなど、彼ら自身が見聞きしたことも多く表現されるようになる。
そして村や近隣地域のみではなく、より広域の人びとがかかわるようになったのが、玉川上水の桜堤並木であった(第四節)。村では江戸の文人をはじめ、多くの人びとを呼び込み、地域文化を発展させていった。桜の植樹にまつわる建碑事業にみられるように、村では地域の連帯を強める意図によって、地域振興として桜をとらえる向きもあった。但し、桜並木は村の人びとの負担を強いるものでもあったから、名所化した桜を、好まざるものと考える人たちもいた。ここにも村の百姓たちの意識の違い、分化をみることができるであろう。
そして幕末維新期をむかえた村では、新たな時代への息吹を、異国船情報をはじめ、自ら取り入れた情報によって、目にみえるかたちで感じていたようである(第五節)。村では新たな負担を課せられることにもなったが、とりわけ江川代官による農兵の取り立ては、「兵農分離(へいのうぶんり)」という近世社会の前提をくつがえし、農民が武力を持つという、それまでとは全く違う社会の到来を予感させた。
この頃、多くの無宿者(むしゃくもの)の出現が、村の治安を脅かす存在となったが、一方で彼らは、地域を守る力とも考えられ、当時の混沌とした社会を象徴する存在でもあった(第六節)。また村は農兵の供出など、領主間の戦いへの動員を求められた。彼らは自らの村のみを守るのではなく、より広域な地域を守ることも求められたのである。
その後、明治をむかえた村では、維新政府軍、旧幕府軍双方から課される役負担(やくふたん)や献金などでも時代の変化を実感したであろう。旧代官の支配が継続していた間は、目に見えるかたちでの問題は発生しなかったが、品川県の支配になった村々は領主に直接訴えるまでに追いつめられることになる。これが御門訴事件(ごもんそじけん)であった(第七節)。この事件は、近世の百姓が、「百姓として」支配役所へ訴えたというかたちが貫かれていた。またこの時期の小前百姓が村政運営にも主体的にかかわり、村役人はこの事件において小前百姓を代表して参加していたことなど、近世の村と百姓のあり方の到達点をも示す象徴的な事件であった。そしてこののちに沸き上がる、多摩地域の自由民権運動の前提としても、大きな意味を持つ事件となったのである。