開発をみる

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第二の視点は、開発=新しい公共性・共同性の創出と展開である。新田村ができるということは、新しい秩序の場が形成されるということである。新田開発は開発人の影響力が強いことはいうまでもない。しかし、開発人のみで新田村が成立するのではなく、近隣遠方からの百姓が入村することによって、はじめて新たな「村」の成立が可能となるのである。開発人たちは積極的に入村する百姓を募集し、「村」を形成しようとした。本編では開発人以外の入村百姓にも焦点を当てながら、新田村成立のあり方を考察することを意識した。各地域のさまざまな慣習をもった入村百姓が、この地で新しい公共性・共同性を形成していったのである。新たな土地での人びとのつながりを維持することは、村の存立と安定化への基礎となり、そのための努力が各百姓に求められた。このように、新田開発と新田村の特質を考えるにあたって入村百姓にも着目した点は、本編の特徴の一つである。
 また、開発場の割り渡しなど、新田形成のあり方に着目することで、これまで歴史研究史上で定義づけられてきた、開発人の性格による新田の類型(第一章第二節コラム)を改めて考えるものとなった。近年、このような類型論が議論の中心になることはまれであるが、ここではあえて、この地域の村を事例に類型化されてきた新田開発のすがたを再検討することを試みた。たとえば大沼田新田は、大岱村(おんたむら)(現東村山市)を本村とする「村請新田(むらうけしんでん)」の典型的事例とされてきた。ところが、開発場の一部分の持添地に村請の要素があるものの、開発場の中心となったのは、開発人が個々に土地を買い集めた、村請とはいえない地域であった(第一章第二節5)。また、江戸の町人が開発にかかわった野中新田は「町人請負新田」、また「百姓寄合新田」などにも当てはめられてきた。しかし開発を発起したのは黄檗宗(おうばくしゅう)の僧であり、実際に開発資金を投入できたのは上総国(現千葉県)の名主の肩書きを持つ者であったなど、新田は一つの類型では規定しきれない複雑な要素が絡んでいた(第一章第二節4)。
 なお、小川新田や鈴木新田で、開発人への割渡地と共に、開発願書を出した村に対して持添地が割り渡されていた点もみのがせない(第一章第二節2・3)。一つの村になったとはいえ、開発人の割渡地と村の持添地、二種類の開発地が存在していたのである。
 何度も述べてきたように、現在の小平市はその全域が近世に成立しているということ自体が特徴である。一般的に、中世あるいはそれ以前に成立した村や集落については、伝承あるいは、あまり多く残されていない時期の史料などから、その成立やようすをたどるしか方法がないのにくらべ、近世に成立した新田村は、村が「できた」当時の具体的なようすを知ることができる条件が揃っているのである。