第三の視点は、江戸との緊密化の問題である。現在の小平市域をふくめた多摩地域の村々は、江戸とは一日で往復可能な地でもあるから、地理的にも政権所在地である江戸とのかかわりを密にする背景があった。また幕府直轄領の村は書類の提出や訴訟のため、江戸の代官役所とは頻繁な往来があり、村としても江戸とのかかわりを必然的に深めていった。経済的側面では、小川村で開発当初から、江戸への石灰輸送の目論見が立てられるなど、江戸はさまざまな目的によって「目指される」地という位置づけがされていた。享保期の新田開発の目的の一つに、江戸への野菜や穀類などの供給地としての役割が期待され、また江戸からは下肥が送られるという、江戸-多摩のサイクルも形成されたのである(第一章第二節1・2)。
江戸とのかかわりの深さは、村あるいは村役人のみではなく、個々人のレベルにおいても同様となった。百姓のなかには、江戸の商人との取り引きのために、江戸の地理を学ぶ者もいた(第三章第二節)。小川村の小川家のように、自らの士分化願望をかなえるために、江戸(=武士)とのつながりを求める者もいた(第二章第八節)。百姓個人のレベルでも江戸とのかかわりが緊密になる要素が存在していたのである。
一方で近世後期には、たとえば青物は江戸の市場とのつながりを弱めたのに対し、雑穀は江戸の市場と強く結びつくなど、生産物によって市場が異なっていくという状況が生じた(第三章第一節)。江戸の重要性が増す一方、武蔵野地域独自の経済圏の重要性も増すのであった。村々の成長が経済圏の広がりを生み、生産物の市場が分化し、地域独自の展開があらわれたのである。江戸とのかかわり方が深まると同時に、江戸以外の地域との深まりもみせるようになったといえよう。