本編は江戸以外の地域、とりわけ多摩地域を中心とした村々や周辺地域とのつながりも、主要なテーマとなった。新たな村ができることは、一つの村のみの問題ではなく、地域の形成にもかかわっていた。開発期、引寺の実施にあたって新田村の間で連携がみられ(第一章第二節7)、本来はほかの地域に信仰の拠点があった人びとが、この地で新たな信仰の拠点を築いたことの意味も考慮する必要があるだろう。また成立を同じくした新田相互が、争論にあたって、所持する文書の存在を共通に認識していたことなど(第二章第七節)、新田村が集まるこの地では、とりわけ新しい地域のあり方をとらえる視点が必要となった。
また時代がくだるにつれて奉公人の出身地が広範囲になっていたように(第二章第四節)、人びとのつながりはしだいに広域化していった。そして、人びとの学びにおいても、生活に密着した生活圏、交際圏が拡大していた(第三章第二節)。特筆されるのは、小金井桜をめぐる人びとの取り組みである。地域住民が江戸の文人らと個々のネットワークで小金井桜を名所化するなど、地域住民が主体となって地域振興の活動をしたことは注目される(第三章第四節)。彼らは、自らが居住する地域を「見知らぬ」人びとが訪れる、地域振興の場にしようとしたのである。それは彼らが村や近隣地域のみではなく、より広い空間を積極的に意識するようになったことを意味するだろう。
支配の面でいえば、幕末期、江川代官が地域の指導者を通じて農兵への参加を促したり、村々で共同して代官の支配替え反対を願ったりするなど、支配と地域連携の視点も着目できよう(第三章第五節)。この地域連携は御門訴事件においてもみられた(第三章第七節)。新たな負担や改革に対して、地域が一体となって反対、訴願を試みたのである。ここには一村にはとどまらない地域連携と社会のあり方が示されている。