さて、近世に成立した村であるとはいえ、七つの「村」のうち、小川村と享保期に成立した新田(ここでは「武蔵野新田」とする)とは、さまざまな区別があった。ほかの六つの「村」にさきがけて成立していた小川村は、支配への役負担が多く、一方の武蔵野新田は「困窮の村」とされ、領主からは「御救い」の対象として「養料金」などの新田助成策の対象であった。小川村はこのことをむしろ「利用」し、さまざまな計画を行うときの理由にしていた。小川村は市場、通船そして畑田成を計画する際、自村の振興だけではなく、周辺地域の振興のため、地域の助け合いのためという理由を述べていたのである(第二章第三節)。武蔵野新田の存在を理由として持ち出すことが有効であったにせよ、小川村は武蔵野新田をふくめた周辺地域のあり方を加味しながら、振興を試みていたことがわかる。
また、助郷役免除の論理が武蔵野新田であることを根拠としていたことも象徴的である(第三章第六節)。村々では八〇か村に及ぶ武蔵野新田であることを、自己主張の理由とし、組織的に主張を展開していた。武蔵野新田固有の論理の存在は、この地ならではの意識として注目される。