開発人や村の草分け百姓が中心となって勤めていた村役人は、近世後期にいたり、より多様な「顔」をみせていた。豪農として、文化人として、さらには村における医学の受容者としての側面もあった(第三章第一節・第三節)。そして御門訴事件での村役人のなかには、新しい支配者の側に立つのではなく、小前百姓と共に歩み、村を代表して処罰を受ける者もいた。そこには村を守り抜いた村役人たちのすがたがあったといえよう。
本編での主要な登場人物となった村の開発人~村役人の系譜を持つ人びとは、引き続きつぎの時代にもそのすがたをみせている。御門訴事件で倒れた村役人もいたが、村をまとめてきた村役人は、明治という時代をむかえても、そのほとんどが引き続き村を代表する立場に立っていた。『小平市史』近現代編においても彼らのすがたの一端がみられるであろうが、ここでは近世からの連続の側面として、明治初期の村役人のすがたに触れておこう。
村役人の名称は明治五年(一八七二)四月の神奈川県からの布告によって変更となり、庄屋・名主・年寄などはすべて廃止、戸長・副戸長と改称して、これまでの事務や土地人民にかかわる事件をすべて取り扱うことになった。村での対応を示す事例を紹介しよう。
鈴木新田では新しい村役人を選出するにあたり、同年八月、小前百姓によって「村役人人選議定」が作成された。内容は以下の通りであった。御門訴事件によって、それまでの村役人はすべて「廃止」され、あらためて組頭一名・百姓代二名が置かれ、公用村用を勤めてきた。しかしこの人数では用向きが差し支えることもあり、旧県の役人に願ったがかなわず、旧村役人が諸用を手伝っていた。このたび、太政官布告によって村役人の役名が廃止され、名主は戸長に、組頭は副戸長と改称し、人選したうえで願い出るようにとの布令が出された。小前一同が評議し、つぎの通りに決まった。旧名主利左衛門と新規組頭定右衛門の両人を隔年番の戸長とし、旧組頭与五兵衛・織右衛門・龍平・新兵衛・幸七・嘉右衛門、そして旧百姓代七郎右衛門と新規百姓代直右衛門・卯右衛門の九名を年番副戸長とする(深谷家文書)。以上の取り決めからは、近世後期に村役人を勤めていた百姓(家)がそのまま新しい名前の役人として任命されたこと、それが村の意向であったことがわかる。また廻り田新田でも、従来の村役人に引き続き村役人を勤めてもらいたいという内容の証文を、新しい戸長斉藤輔九郎、副戸長山田庄兵衛、年番副戸長浅見四郎左衛門へ提出している(斉藤家文書)。
同年に作成された「村役人改称外取調伺書」には、廻り田新田のほか、小川村・小川新田の村役人についても記されている(史料集一八、一三一頁)。小川村は、元名主の小川弥次郎が戸長に、元組頭の弥右衛門・金左衛門・半蔵・茂十郎・佐十郎・清五郎・勇次郎・関太郎が副戸長に改称した。小川新田も元名主で元副戸長の小川弥一郎が戸長となり、元組頭の源左衛門・八左衛門・喜右衛門が副戸長となった。近世における村役人が戸長・副戸長・村用掛となっている。彼らには引き続き村を代表し、まとめることが求められていたのであろう。