皆さんは、小平の歴史というと何を浮かべるでしょうか。小平の近世といえば、新田開発が浮かぶでしょう。それに対して、小平の近現代といえば何を思い描くでしょうか。
今から半世紀以上前の一九五九(昭和三四)年に発刊され、今回の『小平市史』に先立つ『小平町誌』をみてみましょう。『小平町誌』は、一四〇〇ページ近くの大冊のうち、近世が三〇〇ページ、近代が一三〇ページ、現代が六〇〇ページ、自然と民俗が二〇〇ページでした。
ページ数からもわかるように、『小平町誌』の重点は、近世と現代、民俗にありました。近世では新田開発としての小平の出発が詳細に検討され、その後の小平近世史研究の礎を築いています。『小平町誌』のもう一つの大きな目的は、敗戦後から十五年弱のあいだに急速に変化する小平の現状を把握しようとしたことです。同時代への関心の焦点は、東京の西郊としての「都市化」にありました。『小平町誌』では、人口や農業、社会組織、町民の一生などに多くのページをさき、急速に都市化する小平の変貌の様相を多角的にとらえようとしています。近世と現代への関心の高さに対して、『小平町誌』では近代への関心は高くないのですが、関東大震災前後にあらわれる変化も「近郊化」ととらえ、東京の「近郊化」の開始にページを使っています。新田開発としての近世、それと「都市化」の現代、その歴史的前提としての近代の「近郊化」の開始、これが『小平町誌』の描く小平の歴史像でした。
近世の新田開発と戦後の郊外化に小平の歴史の大きなポイントがあることは間違いありません。このような歴史の見方は、小平市の「長期総合計画」などにも引き継がれており、二〇〇六年に作成された「小平市第三次長期総合計画」では、「小平市は、かつては江戸時代に新田開発の地として、さらに戦後は大都市の近郊都市として主に市民の皆様の居住・憩いの場としての役割を担ってきました」と書かれています。
これに先立つ一九八五年に作成された「新長期総合計画」では、小平の歴史を三つに時期区分しています。第一期は、一六五六(明暦二)年以降に新田が開かれた「小平開拓の時代」、第二期が一九二三(大正一二)年以降に小平学園開発がはじまり、鉄道が敷設されて市内各所に駅が開設され、教育研究施設などの大規模な開発がおこなわれて「主要な町づくりの骨格」が形成された「都市的骨格形成の時代」、第三期が、それ以降、各駅周辺を中心にして、農村から住宅都市に急速に変貌する「住宅都市的性格形成の時代」です。近世の新田開発と戦後の都市化を大きな画期とし、あるいはそこに戦前の学園都市を加える歴史の見方であり、開発を主軸とした歴史が今までの小平像だったといっていいでしょう。
ただし、『小平町誌』以来の小平の歴史の見方では、明治維新からアジア太平洋戦争終結までの小平の近代の印象はきわめて乏しいのです。近世の新田開発にはじまった歴史が、一挙に戦後の郊外化に結びつくわけではもちろんありませんし、戦前の学園都市を画期に加えるにしても、開発だけが小平の歴史を説明する要因なのか、検討を要します。とくに『小平町誌』で近代が本格的に検討されなかったことをふまえると、小平の近代を明らかにする作業はほぼ空白のまま残されています。新田開発の近世の歴史は、明治以降にどのように受け継がれて戦前をたどり、アジア太平洋戦争の終結をむかえたのか、小平の近代の歴史的特徴を明らかにし、戦後の現代への接続が解明されなくてはなりません。今までの開発を主軸にした小平の歴史観を再検討し、小平の近世と現代だけでなく、小平の近現代の歴史の道筋を総体として明瞭に描く必要があります。本書はこのような問題関心で編まれています。