小平の近現代の歴史の流れを理解するうえで「開発」「改良」「福祉」の三つの要因があると書きました。以下には、三つの要因についてもう少し詳しく説明をしておきます。
1「開発」
一つ目の要因は「開発」です。近世新田開発に始まった小平の歴史は、近現代に入ると、一九二〇年代の学園開発、戦争中の戦時開発と戦後の転用、戦後の郊外化による住宅建設と工場移転による開発というように、三回の開発の波を経験しています。
各時代の開発は、それぞれ意味が異なります。一九二〇年代の学園開発は、関東大震災後の土地会社(箱根土地株式会社)による学園都市計画の一環であり、関東大震災後の郊外化の時代風潮のもとで、企業が農地取得と住宅建設を促進した開発でした。戦時開発は、戦争の進行にともない、東京府(東京都)の区内から軍事施設や戦争関連施設が移転してくるものでした。これに対して戦後の郊外化による住宅建設と工場移転による開発は、東京の都市化の膨張と経済成長の進行によるものでした。
以上の三つの開発の波のなかで、戦時開発と戦後の開発については検討すべきことが多く残されています。戦時開発については、今まで軍事施設と表現されることが多く、戦後は軍事施設が他に転用されたと議論されてきましたが、戦時中に小平にやってきた戦時開発は軍事施設だけでなく、厚生省の施設なども移転してきました。戦時施設が戦後にどのように転用されたのか、慎重な検討が必要です。
戦後の高度成長期に進む小平の開発を全体としてどのようにとらえたらいいのでしょうか。学園開発と戦時開発は、小平のなかから誘致したものではなく、いわば小平の外からやってきたものでした。戦後の高度成長期の開発には、郊外化にともなう住宅開発のように、外からやってきたものがありましたが、ブリヂストンタイヤ工場などのように小平町が誘致したものもありました。これらを含めて戦後の開発をとらえる必要があります。
2「改良」
二つ目の要因は「改良」です。「開発」という言葉が小平の近現代の歴史のなかで頻出したように、「改良」もまた小平の歴史のなかで使われていた言葉です。「改良」は小平の近現代の歴史の二つの時期に登場します。最初は明治前期です。自由民権運動の展開、殖産興業の導入のなかで、「改良進歩」といった言葉がしきりに使われています。茶業の導入や養蚕・蚕種業の展開、通船から鉄道に至る交通への期待とセットで使われており、在来産業の発展のために殖産興業政策の導入が模索され、同業者組合などの経済組織の結成や地方政治をめぐる議論が活発におこなわれました。鉄道敷設が期待されていることからすれば、「開発」の考えも含まれていましたが、茶業や養蚕・蚕種業を中心に産業の展開が構想されていることからすれば、産業展開の主軸は第一次産業とも連携した在来産業であり、「開発」とは異なる在来産業の展開を「改良進歩」と呼んでいたということができます。そこに地方政治が結びつき、小平地域を含めた北多摩郡では在来産業の発展と政治を結びつけた社会構想が示されつつあったのです。
「改良」は外から持ち込まれる側面が強い「開発」と異なる小平地域の重要な構想だったのであり、小平地域の明治前期を理解する重要な鍵です。本書の第一章と第二章をぜひ読んでください。
「改良」が次に登場するのは第三章から第五章であり、「農事改良」「生活改良」として使われています。郊外化の進行や戦後改革のなかで、蔬菜(小平すいかなど)の栽培の改良や農村的な生活スタイルの改良が「農事改良」「生活改良」と呼ばれ、その必要性が指摘されました。第三章から第五章は「開発」の時代であり、この時代には「開発」と「改良」が併存していたことになります。明治前期の「改良」とこの時期の「改良」には文脈が異なる面がありましたが、同じ「改良」という言葉が一九五〇年代まで使われていたことに注目したいと思います。両時代の「改良」の歴史的意味は、本文を参照してください。
3「福祉」
三つ目の要因は「福祉」です。第五章(一九四五~六一年)から第六章(一九六二~六九年)の時代にかけて、激しい人口流入と郊外化の「開発」がつづきますが、第六章から第七章(一九七〇~八〇年代半ば)の時代になると、「開発」のもとで置き去りにされた市民生活・消費生活をみつめ直す動きや、地域や団地の住民の運動、教育をめぐる運動、医療と福祉を連携させて地域ぐるみで問題を解決しようとする動き、身体に障害をもつ人びとが地域でくらしやすくするための運動などがおきてきます。「開発」や経済成長のもとでのくらしを見直し、さまざまな人びとがくらせる町づくりの機運がでてきたのです。
これらの新しい動きの結び目にあったのが「福祉」でした。一九七〇年代の小平では、「福祉」という言葉がしきりに使われるようになります。それは、一九五〇年代以来つづく「開発」に対して、地域でくらすことを見直す言葉にほかなりませんでした。「福祉」は一九七〇年代の日本において、福祉拡充政策から日本型福祉への転換にみられるように曲折をたどった政策ですが、そのなかで一九七〇年代の小平では、福祉をめぐって行政や運動の積極的対応がみられました。なぜ積極的展開がみられたのでしょうか。それは、小平では「福祉」に取り組むための歴史的前提があり、さらに「福祉」に取組む専門的な人びと(医師や看護婦、保健婦、ケースワーカーなど)と、身体障害者自身がいたからです。
小平で一九七〇年代に「福祉」が活発に取り組まれる前史は三つありました。第一は、病院が設置された戦前・戦時期、第二は、敗戦後の一九五〇年前後の時期に、小平の小川の一角に、身体障害者の職業補導所や共同作業所、身体障害児のための病院と療育施設、養護学校がそろって設置されたことであり、第三に、一九六二年の市制施行によって福祉事務所と保健所が市内に設置され、福祉のケースワーカーや保健婦が小平市内に常駐するようになったことです。
このことを前史にして、一九七〇年前後に小平の福祉と医療を担う大事なグループが二つできます。地域精神衛生業務連絡会(連絡会)と「障害者の権利を守り生活の向上をめざす小平の会」(めざす会)であり、この二つの会が、地域で孤立していた多数の病院や福祉関係の施設を結び、さらに地域社会のなかで孤立していた障害者を結ぶ重要な場になりました。一九七八年には、市内の四一の団体が賛同して、「小平の教育・文化・福祉を向上させる市民集会」が開かれています。教育や文化、福祉などの団体の活動が活発になり、教育や福祉の連携によるまちづくりの機運が出てきました。
一方で、小平市では一九七〇年前後から福祉行政への取り組みが活発になり、高齢者福祉や障害者福祉を積極的に推進し、一九七九年には障害者福祉都市の指定を受けています。
一九七〇年代の小平市では、このように福祉の運動と福祉の行政がそれぞれ展開をしていました。一九八一年には西武鉄道の小川駅に身体障害者のためのエレベーターが設置されています。これは福祉の運動と福祉の行政の連携がみられた事例でした。エレベーター設置のための運動のなかで、それまで身体障害者をめぐる問題にかかわることが少なかった地域の多くの人びとが加わり、小平市・小平市議会との連携もみられました。小平市では、エレベーター設置を一九八一年の国連の国際障害者年の事業に位置づけました。地域でくらすというなかに、身体のさまざまな条件をもった人たちがともにくらす考えが含まれるようになったのであり、「福祉」がまちづくりの課題として取り組まれるようになりました。
一九七〇年代から八〇年代前半の小平市は、「開発」と「福祉」の関係が問われた時代でした。第八章(一九八〇年代半ば~現在)の時代になると人口流入もとまって、いわばポスト「開発」の時代に入り、「福祉」を軸にしたまちづくりが問われるようになっています。
新田開発にはじまった小平の歴史は、このように、明治に入ると「改良」という新しい考えが台頭し、一九二〇年代から一九五〇年代までは「開発」と「改良」の併存の時代に入り、一九六〇年代に強まった「開発」は、一九七〇年代になると「開発」と「福祉」の関係を問う時代になり、一九八〇年代半ば以降から現在は「福祉」を軸にしたまちづくりが問われている、とアウトラインを整理することができます。
三つの要因は、「開発」のみで理解してきた小平の歴史に対して、具体的な史料の検討から新たに提起するものです。三つの要因による理解は、小平の歴史のなかに「開発」以外の可能性があったことを示すものであり、三つの要因の関連のうちに歴史を描くことは、小平の未来を考える示唆にもつながると考えています。三つの要因について、詳しくはぜひ本編を読んでください。