一八六七(慶応三)年一〇月の大政奉還、同年一二月の王政復古により、二六四年間続いた江戸幕府は終わりを迎えた。翌一八六八(慶応四・明治元)年正月の鳥羽伏見の戦いからはじまる戊辰戦争により、新政府は政権としての地位を確立し、同年四月には関東以西を、翌年五月には全国を支配するに至った。
維新の政治変動の情報は、小平にももたらされる。小平の村々に残された一八六七・六八年の御用留(ごようどめ)(諸役所からの触書などを書き留めた記録)には、将軍が政権を返還したこと、京都で戦争が起こったことなどが書き留められている。官軍が江戸へやってくると、江戸周辺の小平では、官軍や旧幕府軍の通行にともなう人馬や糧食、布団などの負担が繰り返し課された。さらに、一八六八年五月には周辺の田無(現西東京市)や箱根ヶ崎(現瑞穂町)、飯能(現埼玉県飯能市)に旧幕府脱走軍の仁義(じんぎ)隊や振武(しんぶ)軍が駐留したため、小平の村々は多額の軍資金を供出させられるなど、維新の変動を間近で体験することになった。
これまでは幕府諸役所―支配代官からもたらされていた触(ふれ)も、一八六八年三月頃より、新政府からの触が書きふれ留められるようになる。同年四月に「東海道鎮撫(ちんぶ)総督府」からもたらされた触には、朝敵慶喜(よしのぶ)を討伐したこと、しかし、本人が悔悟しているので死は免じること、士農工商はこれまでどおり安心してその役に従事すること、当分は徳川の法でも良法はそのまま残すこと、諸事訴訟は総督府へ訴えること、などが述べられている。また、維新後しばらくして、村々の高札場には新政府による高札が建てられた。「五倫道徳の遵守」「徒党・強訴・逃散(ちょうさん)の禁止」などをうたった五榜(ごぼう)の掲示である。政権交代の経緯や新政府の理念が、触や高札という形で村々にもたらされたのである。