維新期の小平の村々

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現在の小平市を構成するのは、近世に開発された七つの新田村である。小平の近世村と字をまとめたのが図1-1である。以下、その概要を確認しておきたい。

図1-1 近世小平概略図

 小平で最初に開発されたのは、一六五六(明暦二)年に開発された小川村である。小川村を開発したのは岸村(現武蔵村山市)の豪農小川九郎兵衛で、以後一貫して、小川家が小川村の名主を勤めた。残りの村はいずれも享保の新田開発政策によって開かれた村々(武蔵野新田)で、小川村が中心となって開いた小川新田、貫井村(現小金井市)名主鈴木家が中心となって開いた鈴木新田、谷保村(現国立市)の僧大堅(だいけん)と谷保村の村人、江戸の商人野中善左衛門らが開いた野中新田(善左衛門組・与右衛門組)、大岱(おんた)村(現東村山市)の名主當麻弥左衛門が中心となって開いた大沼田新田、廻り田村(現東村山市)の斉藤忠兵衛らが、廻り田村の秣場(まぐさば)の確保のために開いた回田新田(近世には廻り田新田が正式名称であったが、一八七三年頃より回田新田が使用されはじめ、後述する一八七八(明治一一)年の郡区町村制以降、回田新田が正式名称となった。本編では混乱を避けるため回田新田を用いる)の六か村である。
 このように、小平を構成する村々は、すべて近世に開発された新田村であった。石神井川を除いて自然河川はなく、井戸も僅かしかなかったため、村々の水は玉川上水からの分水によってまかなわれた。分水は、玉川上水の分水取水口から各村へ向かって開削され、各村の屋敷地の裏手を流れる。水に乏しかったため、耕作地はほぼすべてが畑であり、肥料や薪の確保のため、多くの野畑(芝地)と林畑(林地)が残された。小平の地図を見ると短冊状の区画が数多く見られるが、それは開発後の地割りの段階で、道路・屋敷地・分水・屋敷林・耕作地という一筆ごとの構成が整然と配置されたためである。江戸地廻り経済圏(江戸へ日帰りで農作物や小麦粉等を供給、加工品・肥料を江戸から仕入れる)に含まれるとともに、周辺の所沢(現埼玉県所沢市)・府中(現府中市)・田無の地域市場圏ともかかわりをもち、さらには小川村(青梅街道)と鈴木新田(鈴木街道)にも市が立てられるなど、小平のなかにも、ある程度町場があった。また、村役人層を中心に水車経営(製粉)が展開し、そのほか養蚕・藍玉(あいだま)・酒造・醸造・製油などを営む在郷商人の台頭もみられた。開発名主を中心に、草分(くさわ)け百姓が村役人を担っていたが、一九世紀に入ると、台頭してきた在郷商人も村政に参画するようになった。
 小平の村々は、幕末の一時期を除き、一貫して幕府代官の管轄する幕府直轄領だった。明治維新の頃は、江戸廻り代官松村忠四郎(ちゅうしろう)の支配する鈴木新田と、韮山代官江川英武(ひでたけ)の支配する残り六か村とに管轄が分かれていた。また、関東における広域の治安維持のために編成された村の連合である改革組合村(寄場(よせば)組合)では、田無宿組合四〇か村の中に編成され、江川支配の六か村は、江川支配内のみの村連合である田無村組合にも編成されていた。
 以上が、明治維新を迎える頃の小平のようすである。「小平」という地名は、第二章でも後述するとおり、市制・町村制によって一八八九年に「小平村」が誕生するまでは存在せず、上記七か村のまとまりも、一八八四年の小川新田外六か村連合戸長役場の設立によって、はじめて誕生したものである。したがって、一八八九年以前の記述に「小平」を用いるのは正確ではないが、説明の煩雑さを避けるため、本編では、小平市域を指す呼称として「小平」を用いることとする。