このように明治維新直後は、それまで支配していた代官がそのまま新政府の地方官となったため、地域には劇的な変化は起こらなかった。韮山県の場合、韮山県が廃止される一八七一(明治四)年まで江川役所による支配が続くことになる。この江川支配下の韮山県では、地域からの要望を受けた村連合の再編がおこなわれている。一八六九年に韮山県と品川県との県域の錯綜(さくそう)を解消するため、管轄替えがおこなわれた。この管轄替えにより、これまでの組合村から分離されることになった小川村外五か村、蔵敷村(現東大和市)外五か村の一二か村が、一八七〇年三月、「小高に相成(あいなり)不都合」との理由から、「脇往還継場(わきおうかんつぎば)にも相掛り居」る小川村を寄場親村にして、小川村組合を結成したいと願い出た(近現代編史料集⑤ No.五)。小川村を中心とする組合結成の動きは近世後期にもあったが、そのときは実現しなかった。韮山県はこの願いに対し、南秋津村・久米川村・野口村・清水村の四か村を追加して、小川村組合の結成を認めた。ここに、はじめて小川村組合が発足することになったのである。
一方松村支配地域(品川県)では、一八六八年八月に松村が病気願いによって知県事を辞め、後任として佐賀藩士の古賀一平(こがいっぺい)(定雄)が赴任したことから様相は一変した。品川県は、江戸府内西部の現新宿・中野・練馬・杉並・渋谷・世田谷・目黒・大田・品川の各区から、武蔵野・三鷹・西東京・府中・国分寺・小平・横浜・川崎・所沢の各市へと西へ広がり、約四〇〇か村・七万石の地域の元幕府直轄領からなる。先に触れた一八六九年の管轄替えで、小平では野中新田両組と大沼田新田が韮山県から品川県に移管されている(図1-2)。東京と隣接した直轄県の品川県は、維新政府の地域政策を全国に示すためにも重要な位置にあり、知事の古賀は、江藤新平(しんぺい)・大木民平(喬任)(みんぺい(たかとう))とならんで「佐賀の三平」と呼ばれた志士であった。同志の大木は東京府知事を勤めており、東京府と品川県とで、維新政府の方針を反映した地方政策が採られることになった。
図1-2 小川村組合構成(1870年3月~)
古賀は、太政官が発行した紙幣である太政官札が、人びとの信用が弱く流通が滞り、額面よりも割安にしか流通しなかったため、県下の村々では太政官札の受け取りを拒否する者は処罰すると通達し、村高一〇〇石に付き二五両の割合で強制的に交換させようとした。これは、財政難の維新政府にとって、太政官札の発行と流通が、その解決策と目されていたからで、古賀が地域の事情や慣行よりも、政策や理念を重視する姿勢をもっていたことがよくあらわれている。
小平が属した韮山県と品川県との地域政策の違いが如実にあらわれたのは、「社倉(しゃそう)」をめぐる政策である。社倉とは、凶作や飢饉に備えて穀物等を貯蓄しておくことで、近世社会一般に広くみられた慣行である。地域主導や領主主導などさまざまな形態があり、地域の倉(郷蔵(ごうぐら))に地域の有力者が中心となって、稗や粟などを貯蓄しておくことが一般的だった。関東では幕末から飢饉が頻発しており、一八六九年にはとくに激しい飢饉に見舞われたため、飢饉に備える社倉制度の整備が、新政府にとっても重要な課題となっていた。
韮山県では社倉制度について、政府に米・金を上納するのではなく、凶荒への予防のために備えておくことだと説諭し、各村で備荒貯蓄することを認めたうえで、「凶荒予備の目途」を各村で立てるよう指導した。各村が米穀を貯蓄しておき、県がそれを計画的に運用するように指導するという関係にあった。