図1-3 明治初年の支配・行政の変遷
一八七一年七月一四日には廃藩置県がおこなわれ、これまでの地方行政組織である「藩」と直轄「府県」が廃止され、新たに三府三〇二県に再編されることになった。しかし、旧藩をそのまま府県としたため、あまりにも府県の数が多く、同年一一月一四日に再び統廃合がおこなわれた(改置府県)。小平周辺でも品川県・韮山県が廃止され、神奈川県・入間県・東京府が置かれることになった。当初、多摩郡は入間県に編入される予定だったが、横浜開港場の外国人遊歩区域との関係で、神奈川県に編入された。
このとき小平の村々はすべて神奈川県に編入され、以後、一八九三年に東京府に編入されるまで、神奈川県の管轄となる。戸籍区も神奈川県のもとで再編され、韮山県一ノ区は、清水村(現東大和市)などを加えて神奈川県第五〇区に、品川県第二〇区は、神奈川県第四九区となった(図1-3)。
戸籍区はあくまで戸籍の編成のためのものであり、通常の行政は県―寄場組合・寄場名主―各宿町村でおこなわれたが、神奈川県は戸籍区・戸長を触廻状や租税納入ルートとしたため、行政の権限が戸籍区・戸長と寄場組合・寄場名主に併存することとなり、混乱が生じた。旧来の地域的なまとまりと、政府の統一的な地方制度との狭間で、同様の混乱は全国で頻発したため、政府は一八七二年四月、「荘屋名主年寄すべて相廃止戸長副戸長と改正」と、これまで村政を担ってきた名主以下の村役人を戸長・副戸長と「改正」した。そのうえで、戸長・副戸長が、これまでの行政実務や租税にかんすることを取り扱うようにと触(ふれ)を出した。政府の意図は、村役人の職務を戸籍区の戸長にひきわたすことにあったが、文面は村役人を戸長・副戸長に「改称」することと受け取られ、また、管轄する府県もそのように認識したため、戸籍区の戸長と、旧村役人の戸長とが併存する事態となった。また、神奈川県では、戸長への改称にあたって村役人の減員を指示していたため、村々では、誰を村役人から外すかで混乱があった(『国分寺市史 下巻』)。
小平での旧村役人の戸長・副戸長への改称は、「村役人改称外取調伺書」という記録に記されている。それによると、小川村では元名主の小川弥次郎が戸長となり、以下、元組頭八名が副戸長となるなど、旧村役人がそのまま戸長・副戸長となったが、これまで設けられていた年寄・百姓代は、このとき副戸長から外された(小平市史料集18、一三一頁)。