一八七三(明治六)年四月に区番組制が導入されると、九番組では同年一一月、小川村に仮会所を設置した。会所設置直後の入費をまとめたのが表1-3である。会所設立のため掲示場・標札・テーブル・椅子・時計・書籍箪笥(たんす)・会所印・箒(ほうき)・盥(たらい)・土瓶(どびん)・茶碗・火入(ひいれ)などが揃えられていったようすがわかる。一二月以降の支出は戸長以下の月給・会所家賃・筆墨料・茶・罫紙・半紙・美濃紙・墨・回達持夫賃銭で、ほぼ固定されるようになる。戸長以下の人件費、家賃、事務用品が基本的な会所経費だった。この経費は、小区の村々に反別割で割りあてられ、各村では、家ごとの持高割で経費を負担した。
表1-3 九番組会所入費 1873年11~12月分 | ||
11月 | 12月 | |
戸長以下月給 | 16.5 | 17 |
掲示場建物代 | 1.2121 | |
標札折所代共 | 0.165 | |
テイフル壱脚 | 1.2125 | |
時計壱柄 | 6 | |
椅子四脚代 | 2.805 | |
書籍箪笥代 | 1.6875 | |
会所印三ツ | 0.875 | |
朱肉壺代共 | 0.413 | |
仮会所家賃 | 0.3 | 0.3 |
筆墨料 | 0.75 | 0.75 |
茶壱斤 | 0.5 | 0.5 |
罫紙四帖半 | 0.6525 | 0.6525 |
半切百枚 | 0.083 | 0.083 |
美濃表紙 | 0.0925 | |
飛脚賃 | 0.07 | |
区会所出頭 | 0.33 | |
半紙 | 0.288 | 0.288 |
美濃紙 | 0.14 | 0.14 |
箒 | 0.0135 | |
盥 | 0.055 | |
土瓶 | 0.111 | |
茶碗 | 0.1332 | |
火入 | 0.0542 | |
炭 | 0.4713 | 0.4713 |
色墨 | 0.05 | |
回達持夫賃銭 | 1.02 | 1 |
計 | 35.9843 | 21.1848 |
単位:円 | ||
(出典)斉藤家文書「第拾壱区九番組会所入費取調書」より作成。 |
一方、村全体で負担する経費のことを村費というが、九小区の村々の一八七七年の村費をまとめたのが表1-4である。ここから、旧名主にかわって村を代表する村用掛の給料、事務用品などのほかに、小学校入費や道路橋梁修繕費があり、この二者の割合が大きかったことがわかる。
表1-4 1876年九小区村費書上 | ||||||
費目 | 小川新田 | 小川村 | 回田新田 | |||
村用掛并小使給 | 13 | 2.9 | 50 | 3.6 | 10.05 | 8.7 |
村用掛筆墨料 | 2 | 0.5 | 6 | 0.4 | 0.6 | 0.5 |
諸用掛其外用度費 | 6 | 1.4 | 50 | 3.6 | ||
学務世話役給料 | 9 | 2.0 | 34 | 2.5 | 3 | 2.6 |
県庁修繕費并監獄費 | 4.323 | 1.0 | 10.335 | 0.8 | 1.61 | 1.4 |
大祭遙拝式費 | 15 | 1.1 | 0.5 | 0.4 | ||
道路橋梁掃除(修繕)費 | 186.059 | 42.1 | 835 | 60.7 | 32.41 | 27.9 |
道路常式掃除費 | 16 | 3.6 | 33 | 2.4 | 4.8 | 4.1 |
小学校入費 | 160 | 36.2 | 300 | 21.8 | 44.52 | 38.4 |
村用ニ付出港其他出頭費 | 16 | 3.6 | 30 | 2.2 | 7.5 | 6.5 |
地租調理係ル費 | 30 | 6.8 | 12.5 | 0.9 | 6 | 5.2 |
風祭雨乞費 | 5 | 4.3 | ||||
計 | 442.382 | 1375.835 | 115.99 | |||
(円) | (%) | (円) | (%) | (円) | (%) | |
(出典)斉藤家文書「明治九年第一月ヨリ第十二月三十日迄民費書上」より作成。 |
九小区の戸長は小川新田元名主小川弥一郎、副戸長は回田新田元名主斉藤忠輔、書役(書記)は野中新田六左衛門組(現国分寺市)の元百姓代岡部八右衛門が勤めた。会所で実務の中心を担っていたのは斉藤と岡部だったようで、一八七四年三月の出勤状況をみると、斉藤・岡部が二〇日出勤しているのに対し、小川は八日の出勤である。斉藤は大区会所へも四日通っている(「日誌 第壱号」)。会所の日常業務は、租税や戸籍にかかわる日常業務に加え、後述する地租改正や徴兵制、小学校にかんすることなど、明治政府の新政策にかかわることが大きな割合を占めていた。
戸長の小川弥一郎が一八七六年に死去したため、その後は斉藤が戸長となり、斉藤と岡部の二人で会所業務を担当した。大区小区制は一八七八年に廃止となったため、会所でこれまで作成されてきた記録類は、旧九小区村々の協議により、斉藤家に預けられることになった(近現代編史料集⑤ No.六)。