小平では、大沼田新田が一村で戸長役場を設ける一方、野中新田両組は組合村を結成して戸長役場を設置し、鈴木新田は回田新田と、小川村は小川新田と組合村を結成し、それぞれ戸長役場を設けた。大沼田新田も一時期田無町と組合を結成していた時期がある。地理的に隣接する村々で戸長役場を結成して行政事務の効率化をはかったものであるが、後述するとおり、この時期の戸長役場の大きな任務には地租改正をめぐる闘争や、学校の設立と配置という問題があり、それぞれの思惑を実現するために、地域の枠組みが模索されていたと考えられる。このほか、詳細は不明だが、田無町を中心とする田無町外四六か村連合会や(「田無町外四拾六ヶ村聯合会議員当撰通知」)、田無町外七か村連合会が結成され(「田無町外七ヶ村聯合町村会開催通知」)、小平の村々も一部参加していたようである。田無を中心とした中域連合も模索されていた。
図1-5 小平の行政変遷図
郡区町村編制法下で地域の枠組みの模索が続くなかで、「小平」というまとまりが形成されていったようである。詳細はわからないが、一八八四(明治一七)年に入り、野中新田両組と小川村組合が合併した。そして、同年五月の政府による五〇〇戸を基準とした連合戸長役場設置の指示を受け、県は六月に甲第四八号を発して県内の戸長役場所轄地域と役場位置を通達した。それによって七月、現在の小平市の範囲となる小川新田ほか六か村連合戸長役場が成立した。戸長役場は小川新田熊野宮に設置され、初代戸長には小川村の小川弥次郎が任じられた(近現代編史料集⑤ No.三)。こうして、小平の原形となる地域のまとまりができたのであるが、なぜこの七か村が一つのまとまりとなったのかという理由はわからない。ただ、野中新田両組と小川村組合の合併が先行していたことから考えて、県が一方的に設定したものではなく、小平のなかでのさまざまな連合の模索の帰結であったと思われる。
しかしながら、この段階での戸長役場は、「連合」の名が示すように、あくまで基礎単位は個々の村で、各村に設けられた村会も機能しており、強い権限をもつものではなかった。小平が本格的に一つのまとまりとなるのは、一八八九年のことである。