開化の風潮

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明治維新後の人びとの日常生活の変化を象徴するのが「文明開化」という言葉である。欧米の価値基準によって欧米の文物・知識・情報を取り入れ、習俗や価値観を文明的なものに開化していくことが、政府主導でおこなわれた。維新後しばらくすると、東京や横浜の都市部から文明の利器が村々にやってくる。人力車はそうした文明の利器の象徴だった。小平では一八七三(明治六)年頃より、小川村の村役人・豪農層を中心に、人力車経営がおこなわれはじめた。一八七四年調べの小平での人力車営業人の一覧が表1-6である。一八七四年一一月には、回田新田の川島玉吉も人力車営業を開始している(「書上留第五号」)。これらの豪農たちは、一人で四・五輌経営していることから、車夫を雇って営業していたものと思われる。文明の利器である人力車であるが、一方で、それを牽く車夫には、開化とはほど遠いイメージが付くようになった。というのも、車夫はしばしば半裸やふんどし一丁で営業していたため、その姿が文明にふさわしくないとされたからである。そもそも車夫には、それまで街道沿いの町場で助郷などの日雇人夫をしていた者が従事する場合が多かったため、むしろ着物の裾をたくし上げた姿で営業するのが慣れ親しんだ姿だった。
表1-6 1874年4月人力車営業人
営業人数(輛)
小川弥次郎1
立川勝五郎4
神山力蔵5
林馬蔵4
林乙二郎5
(出典)斉藤家文書「諸書上物控 第壱号」より作成。

 政府や府県は人びとが日常的に文明的な姿であるよう、しきりに働きかけた。一八七四年九月に神奈川県が第一〇大区の村々に出した通達には、以下のようにある(「書上留第弐号」)。
  小区内各村庶億の輩(やから)裸体あるいは袒裼(たんせき)致し農事工業または住家店先に商業し且往来候者少なからず、右等の義は昨明治六年第六月中更に御布令相成り候違式第二十一条犯則候義、将健康保全を毀害候事にもこれあり
つまり、裸体(ふんどし一丁)や肌脱ぎの姿で農業や工業などに従事したり、商店で営業したり、道路を通行するものが少なからずいるが、そのことは「違式」に違反しており、健康も害するので、県官が巡視してしっかりと管理するというのである。このことは幼児なども同様とされ、父兄がしっかり監督することがあわせて命じられている。人前で裸体や半裸であってはいけないというのが、政府の示した文明的なルールだった。
 こうした政府の定めた新たなルールは、一八七二年頃より布達としてもたらされている。ここに出てくる「違式」とは、政府や各県が定めた軽犯罪法のことで、神奈川県では、一八七三年六月、「違式条例」として発布された。内容は八一か条におよび、五条までは処罰に関する事柄で、残りの七六か条は具体的な違反行為である。ここでは、それまで日常的におこなわれていた刺青、混浴、男女相撲や蛇遣いなどの見世物、戸締まりをしないこと、風呂場の目隠しをしないこと、女性の理由のない断髪、便所以外での排泄、往来で通行人をじろじろ眺めること、祭礼のさいに異形の姿をすること、酩酊して路上に倒れること、道行く女性をはやし立てること、水飲み場での行水、などが禁止されている。先に違反しているとされた第二一条は、「裸体・肌脱ぎ・股脛(すね)露出など醜態をさらす者」である。
 また、明治維新は人びとの信仰にも改変を迫る。近世社会において、寺は墓地を管轄する先祖供養の拠点であると同時に、寺檀制によって人びとの人別(戸籍)を管理し、神社は鎮守として地域の息災を祈願する役割を担っていた。しかし維新後、神道は国教と位置づけられ、地域の神社はその拠点としてあらためて位置づけられた。一方、寺院に対しては、人別を管理する役割がなくなり、従来の寺檀制を否定するまでには至らないものの、その信仰の内容には厳しい目が向けられ、神仏習合的な寺院施設や土俗的な民間信仰は、改変・廃棄を迫られた。従来、寺の境内に氏神を祀った祠があったり、神社の境内に地蔵堂があることは珍しくなかったが、維新後、これらの「神」と「仏」は、その由来や性格をしっかりと査定したうえで分離しなければならないとされた(神仏分離)。小平の寺社でも神仏分離が実施された。たとえば、小川新田平安院に「神仏混淆(こんこう)御調衆」という役人がやってきて、平安院境内の金比羅社と愛宕宮について、神仏混淆の状態にあるので、神体と祠を小川新田の熊野宮へ引き移すことを命じている(小平市史料集14 一四八頁)。
 また、これまで用いられてきた神社の名称も変更された。たとえば、「権現」は、仏教の仏が神道の神々の姿で現れたという本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想にもとづく神号なので、維新政府によって廃止され、鈴木新田稲荷神社の境内にあった榛名(はるな)権現や金刀比羅(こんぴら)権現は榛名神社・金刀比羅神社へと改称させられている(小平市史料集14 一六九頁)。地域の寺社は神仏分離のうえで、統一の基準のもと、神社の由緒に応じて村社・郷社などの格付けがなされていった。
 一方、寺の境内はこれまで除地(免税地)とされてきたが、その大部分が官有地として召し上げられるなど、寺は苦境に立たされた。こうした状況下で、僧侶たちも政府の大教宣布(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴を広める)の担い手である教導職に就くようになり、国家・天皇への忠誠、敬神などの国家の価値観を説教する役割を負わされていく。