徴兵制の施行と最初の戦争

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一八七二(明治五)年一一月二八日、政府は「徴兵告諭」を布告する。そこではこれまで軍事を担ってきた武士について、武力を帯びつつ、みだりに武力をふるい罪に問われない存在だとして非難し、武士の禄を奪い、武装を解除したうえで兵農の差を無くさなければ、四民平等・四民の自由は訪れないと述べている。近世でも百姓が農兵などのかたちで軍事動員されることはあったが、「農」が「兵」となって戦闘に従事することを強制される徴兵制度は、地域に大きな影響を与える出来事だった。
 一八七三年正月、徴兵令が発せられた。続けて出された六管鎮台表では、全国が東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の六管区に分けられ、それぞれに鎮台が置かれることになった。小川村にも、二月一日に徴兵令と神奈川県からの徴兵布達がもたらされた。ここでは、神奈川県は東京鎮台管下となること、二月一五日から徴兵吏が廻村するので、一五〇〇石に一人の割合で、満二〇歳以上の者を精選しておくことが命じられた(「御請書」)。
 徴兵令では「徴兵編制並概則」が定められた。ここでは徴兵令の運用について、満二〇歳の成年男子に徴兵検査をおこなうこと、徴兵適格者から府県ごとの抽選で毎年一万五六〇人を常備軍に招集することが定められている。常備軍は鎮台に三年間入営し、退役後は後備軍に一期二期各二年の計四年間編制されることとなった。さらに全国の一七歳から四〇歳の男子は、国民軍として管理されることになった。戦争が起こると、兵役中のものに加えて第一期後備軍が動員され、「全国大挙の時」に至ると、第二期後備軍も動員され、国民軍は管内の守衛にあたるという仕組みであった。一方で徴兵令では、徴兵検査の該当者について、身長五尺一寸(約一メートル五五センチ)未満、持病、官員、兵学寮生徒、戸主、嗣子、前科のある者、父兄が病気の者、養子、兄弟が兵役中の者などの詳細な徴兵除外規定が定められた。
 徴兵令の施行にあたっては地域からの反発が予想されたため、徴兵令の布達と同時に県の徴兵吏が廻村し、趣旨を「説諭」して回ることとなった。神奈川県五〇区の村々では、二月一五日に巡回してきた徴兵吏から徴兵趣意の説諭を受け、承服したとの請書を提出し、二月一七日には二〇歳の者の取調帳を提出している(「武蔵国第五十区当廿歳之者取調帳」)。取調帳は区内の各村ごとに作成され、一八七三年に二〇歳になる者の住所と名前が記されたが、多くの場合、そのうえに「身丈五尺」「嗣子」「戸主」などの免除理由が記されている。小川村・小川新田・回田新田を含む神奈川県五〇区一四か村ではこのとき、体格を理由に免除された者が一九名、嗣子を理由に免除された者が二七名で、徴兵検査対象者となったのは六名であった。二〇歳の者五二名に対し、検査対象者は一割程度だったことになる。
 徴兵検査対象者となった者は徴兵所で検査を受け、合格者は入営することになる。一八七五年の一一大区の場合、二月一五日に八王子駅(現八王子市)極楽寺の徴兵検査所で検査を受けるため、一四日、一七名が八王子駅へ向かっている(「徴兵検査者調査表」)。検査には一〇小区戸長内野杢左衛門と九小区副戸長斉藤忠輔、八小区戸長代理清水勇二郎が同行した。この検査に合格した者は、四月二六日に東京鎮台に入営することになっていた。このとき一一大区からは九名が入営することになり、小平からは、小川村から二名、鈴木新田から一名が入営した。入営にも内野と斉藤が同行している(近現代編史料集⑤ No.一〇)。また、二〇歳の徴兵検査者の選定だけでなく、国民軍人員表も作成されている。一八七六年の一一大区九小区国民軍人員表の場合、小川村など六か村で一七歳から四〇歳の者が計四〇三名確認されている(「第拾壱大区九小区 国民軍人員表」)。

図1-7 「第十一大区九小区国民軍人員表」1877年

 多くの免除規定があったとはいえ、一定の割合の働き手が三年間拘束され、その後も四年間ある程度の制約を受けることは、農家にとっては大きな負担だったため、なんとか免除規定に該当するよう、免除嘆願が出された。小川村の久家万五郎家の二男幸次郎の場合、二男であるため兵役免除規程が適用されなかったが、兄の体調不良のため農家を経営していくことができないとして、兄を廃嫡した上で幸次郎に家を継がせたいという願いを出している。幸次郎が嫡子となれば、徴兵免除規定に該当するため兵役を免除されるはず、というわけである(「徴兵免役願」)。幸次郎が徴兵になれば「全戸生活及び難く当惑仕り」と主張したが、この免除願いが徴兵検査の間際だったこともあり、幸次郎は免除されなかった。
 徴兵令の施行から四年後の一八七七年、西南戦争が勃発する。西郷隆盛(たかもり)を領袖と仰ぎ、旧薩摩藩士を中心とする不平士族が蜂起したこの戦争は、旧武士の軍隊と、農村から集められた徴兵による軍隊との戦争という側面をもっていた。小平から東京鎮台に入営していた兵士たちも、この戦争に動員されている。小川村神明宮の戦捷記念碑によれば、このとき小川村からは小野田弥三郎・田中谷蔵・小山倉蔵の三名が従軍した。田中は一八七三年の最初の徴兵検査で、小山と小野田は一八七五年の徴兵検査でそれぞれ入営している。このうち、田中と小野田は熊本での作業や戦闘で戦死した。また、先にみた小川分署の巡査水谷正令も従軍し、やはり熊本での戦闘で戦死している。小川村で一人生き残った小山は、一八八〇年に従軍の報奨金を下賜され、後備兵輜重(しちょう)兵第三番に編入された(「公用留 第四号」)。