明治初年の農作物

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小平の地理的特徴は水源に乏しいことで、そのため、耕作地は畑が大部分を占めていた。一八七二(明治五)年から七四年までの神奈川県一一大区九小区の物産表が残されているので、ここから、小平の農作物についてみておきたい。
 九小区に属する小川村・小川新田・回田新田の物産を一覧にしたのが、表1-8である。表からは、小平の村々で作られていた農産物が、小麦・蕎麦(そば)・菜種・荏(えごま)・粟(あわ)・薩摩芋(さつまいも)・真桑瓜(まくわうり)・唐茄子(とうなす)(かぼちゃ)・繭・生糸・青茶・製茶・藍葉(あいば)・藍玉(あいだま)・薪・清酒・濁酒(にごりざけ)・醤油・水油・かすり縞(じま)・鶏・玉子だったことがわかる。生産量が多いのは小麦・蕎麦で、その他に雑穀類を生産するのが小平の農業の基本だった。ただし、小川村では荏を、回田新田では粟をそれぞれ生産していないなど、作物の選択には微妙な違いがあった。
表1-8 1872~1874年9小区物産表
 小川新田小川村回田新田
187218731874187218731874187218731874
小麦(石)160140138875650650302525
蕎麦(石)180160155400350380353030
菜種(石)2025223030252.833.5
荏(石)765.3   322.3
粟(石)302829908075   
薩摩芋(駄)280250210500450450504545
真桑瓜(駄)   150150160   
唐茄子(駄)909089200170150151728
繭(石)122025100190180.571515
生糸(貫)57.57.5851251350.91.21.2
青茶(貫)1001201201201301381309090
製茶(貫)406060506060202228
藍葉(貫)1100900900150010001200250150150
藍玉(駄)300400200180250285150130130
薪(駄)6050       
鶏(羽)240260268600800800455050
玉子(個)720600150080010002000120160260
清酒(石)   548.26402.2402.2   
濁酒(石)   151515   
水油(石)   3164.80464.804   
醤油(石)   202020 5050
カスリ縞(反)   100015002000   
(出典)斉藤家文書「九小区 書上留」より作成。

 商品作物では、薩摩芋が最も盛んに栽培され、唐茄子も三か村で栽培されている。小川村では真桑瓜もつくられているが、これは、一七世紀の小川村開発期から作られ、江戸の市場に出されていた、小川村の代表的な商品作物である。
 三か村とも繭と生糸の生産に取り組んでおり、養蚕と製糸がおこなわれていたことがわかる。養蚕はとくに小川村での生産量が多い。少しのちの時期になるが、一八七八年の九小区の養蚕業従事者数を一覧にしたのが表1-9である。回田新田では、一六戸のうち一一戸が養蚕をおこなっており、うち三戸は製糸にも取り組んでいる。小川新田でも四五戸が養蚕に、一三戸が製糸に従事している。小川村では、すべての字でまんべんなく養蚕・製糸がおこなわれているが、とくに製糸従事者が多い。小平では、養蚕・製糸が広くおこなわれていたのである。小川村では反物も生産していた。
表1-9 1878年9小区養蚕業従事者数
 生糸製造生糸売買養蚕
11大区9小区14819 
小川新田13245
回田新田3 11
小川村8815121
 一番組14 12
 二番組13 11
 三番組21 10
 四番組7 14
 五番組9 16
 久保組8 17
 七番組7 15
 八番組9 16
野中新田六左衛門組26 29
榎戸新田9211
平兵衛新田9 10
単位:(人)
(出典)斉藤家文書「書上留第三号」より作成。

 藍の栽培も盛んにおこなわれており、小川新田の熊野宮では、「一本榎」印の藍玉が広く販売されていた。また、第三節で詳しく触れるが、製茶も盛んにおこなわれるようになっていた。製茶には三か村とも取り組んでいるが、とくに回田新田は、村の規模が小さいにもかかわらず小川村・小川新田に匹敵する生産量があり、力を入れていたことがわかる。
 薪は小川新田のみでみられるが、これは、玉川上水南側の秣場(まぐさば)の地域を利用したのだろう。清酒・濁酒・油は小川村のみで生産されていた。醤油は、回田新田でも一八七三年より生産が開始されている。
 また、物産表にはみられないが、近世後期より、各分水の分水末の余水などを利用して湿地が作られ、そこを田場とする「畑田成」も試みられていた(小平市史料集25)。畑から田にすると、面積あたりの年貢額が大きく増加し、また地割も変更しなければならなかった。しかし、村の生産力を上げることが「国益」につながるとの理由で、小規模ではあったがおこなわれていたのである。その結果、明治初年の小平では、各村で数か所ずつ、田場を確認することができる。