小平での農業経営を考えるうえで特徴的なのが、玉川上水の分水を利用した水車である。水車は、玉川上水の分水から水車の持ち主の屋敷へ引かれた水路に架けられ、石臼を動かす動力となった。小平では、一八四六(弘化三)年の時点で一四台の水車があり、明治維新後にさらに水車の増設が進み、一八九一(明治二四)年には二四台の水車が設置されている。周辺の地域と比較しても、久留米村一一台、国分寺村四台、小金井村八台であり、小平の水車の数が突出している。小平での内訳は、小川村一〇台、小川新田三台、鈴木新田四台、回田新田一台、野中新田両組四台、大沼田新田二台で、すべての村に水車が設置されており、とくに小川村が多かった(「徴発物件一覧表」)。
明治期の水車の用途は基本的に搗(つ)き(精米・精麦)と挽(ひ)き(製粉)で、小平ではとくに製粉が盛んであった。回田新田では斉藤忠輔宅に水車が設置されており、隣家の山田庄兵衛と共同経営していた。一八八〇年の麺粉(小麦粉)売上高は、斉藤家二四七八円余、山田家二二八六円余に上る(「書上留」)。同年の物産表では、回田新田の物産の産額は小麦二八七円余、生糸二〇六〇円、製茶五五〇円であるから、両家にとって、水車経営による収入が大きかったことがわかる。
日本では、明治末にいたるまで、水車による製粉(水車粉)が小麦粉の総生産量の半数以上を占めており、小平でも明治期をつうじて、水車経営が主要な産業の一部を占めていた。その後、輸入・機械粉の小麦粉が中心になるにつれて、水車経営は搗き(精米)が中心となっていく。