村の階層構成

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村のなかには、所持地の多寡や水車の有無、養蚕や醸造等の余業の展開などにより、経済的な格差があった。小平の村々の階層はどのように構成されていたのだろうか。一八七〇(明治三)年に品川県が社倉金の供出を命じるために作成した持高の一覧から確認しておきたい(小平市史料集18 二七頁)。
 表1-12は、大沼田新田と野中新田善左衛門組の持高階層を表にしたものである。大沼田新田は村高三二〇石で、四五軒が居住していた。平均石高は七石余で、階層別にみると五〇石以上が一軒、一〇石以上が六軒、七石以上が五軒、五石以上が五軒で、最下層の五石未満層が二九軒である。最上層の五〇石以上層の一軒は名主の當麻弥左衛門で、村高の約二五%を所持していた。そして、一〇石以上の七軒で村高の五割を所持していた。もっとも家数が多いのが最下層の五石未満層で、六割以上の家がこの階層に含まれている。大高持ちで村役人をつとめる當麻弥左衛門と當麻伝兵衛の二軒を中心に、水車経営を中心とした製粉・醸造(酒・醤油)・養蚕などの余業も展開しており、実際の差はさらに大きかったと思われる。しかし、村役人は必ずしも大高持ちがつとめていたわけではなく、五石以上の階層の村役人もいた。
表1-12 野中新田・大沼田新田階層構成表
 野中新田善左衛門組大沼田新田
 軒数戸数比村高比軒数戸数比村高比
50石以上12.019.812.225.3
30石以上00.00.000.00.0
20石以上12.05.600.00.0
10石以上918.035.4613.026.0
5石以上918.017.41021.722.2
2石以上1326.012.92145.723.7
1石以上816.03.4510.92.4
1石未満918.01.136.50.3
(軒)(%)(%)(軒)(%)(%)
(出典)小平市史料集18より作成。

 野中新田善左衛門組は、村高三六九石余で、五〇戸が居住していた。平均石高は七石余で、階層別にみると、五〇石以上が一軒、二〇石以上が一軒、一〇石以上が九軒、五石以上が九軒、最下層の五石未満層が三〇軒である。最上層の五〇石以上層は在郷商人の佐藤惣兵衛(そうべえ)で、村高の二〇%を一軒で所持していた。佐藤は、最盛期には一五〇石もの身代をもち、質物油絞り糠灰(ぬかはい)等の商渡世と、多様な余業を経営していた。村高の六割を所持していたのが一〇石以上の層で、家数は最下層の五石未満層がもっとも多く、全体の六割を占めていた。
 このように、明治初期の小平では、階層がある程度分かれ、余業を展開する在郷商人が経済力を背景に土地を集めていたことも、うかがうことができる。しかし、先に触れた御門訴事件の経緯や、後述する地租改正への対応にみられるように、村全体に降りかかる負担増に対しては、最上層・村役人たちが率先して最下層の免除を勝ち取るために行動している。彼等の村のまとまりを保とうとする意識は強かったと考えられる。