明治政府の土地政策

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廃藩置県によって全国への課税権を手にした明治政府は、財政の確立をはかるため、地租改正に取り組んだ。地租改正とは、土地の所有者と所有地、その所有地の価値(地価)を確定して土地の所有権を保証する一方で、所有地に対する義務として地価の三%を地租として徴収するというものである。廃藩置県までは、税率や免除の基準、付加税の種類、土地の面積の単位などの税制が、領主によってまちまちで、統一的な把握・運用はされていなかった。また、税制が田での米の生産量を基準としたものであったため、畑より田の方が税率が高く、幕府よりも藩の方が税率が高いなどの不均衡があった。さらに、年貢は収穫高に課せられていたため、税収がその年の作柄や天候などに左右されて不安定だった。明治政府は、こうした不均衡、不安定の問題を解決するため、統一的な基準の税を定め、収穫ではなく地価に課税して金納とすることにしたのである。
 地租改正に先立つ基礎作業として、一八七二(明治五)年二月、田畑売買の禁止を解除し、土地の所有権が領主ではなく農民にあること、納税義務が土地所有者にあることを定めた。そして、その所有権を示す地券の交付を開始した。神奈川県では県下各村に、反別・地代金の目安となる小作料を記した「田畑其外直段書上帳」の作成を命じ、同年五月頃には改租と地券交付をはじめた。
 書上帳作成後の翌一八七三年五月には、各村の田畑山林や宅地などの地目と地割や、道路・用水などを描いた地引絵図の作成が命じられた。小平には書上帳と地引絵図のセットのものが、小川村・回田新田に残されている。しかし、書上帳と地引絵図の提出状況はあまりかんばしくなかった。地価は小作料の一〇倍とされ、地価の算定が終わった村から「地券之証」(壬申地券)が発行されたが、壬申地券の発行は滞り、神奈川県下で発行されたのは、四〇%程度の村にとどまった。小平では、壬申地券は確認できていない。