壬申地券交付のさなかの一八七三(明治六)年七月、地租改正令が全国で公布された。壬申地券にともなう調査が近世の貢租を基準とし、検地帳をもとに書上帳が作成されていたこと、しかも、その作成すら徹底できなかったことから、政府は方針を転換し、全国的な統一基準による土地の測量と生産力の算定をおこない、詳細な土地データを作成して、そのデータをもとに地価を定めることに決定したのである。ここに地租改正は本格的に始動することになった。
神奈川県は三四か条からなる「反別地価等書上方心得書布告」を公布し、大区小区を地租改正の基礎単位とし、各大区の区長を地租改正取調総代人に任じた。その総代人のもとで、改正の実務にあたる事となったのは小区の戸長であった。政府によって官吏の末端に位置づけられた区長・戸長たちが、政府の企図する増税と、その根拠となる測量・地位等級の判定をおこなうことになったのである。小平が属する一一大区の地租改正取調総代人となったのは、区長であった田無村(現西東京市)の下田半兵衛で、九小区戸長の小川新田小川弥一郎、のちに回田新田斉藤忠輔(安在)が、そのもとで実務にあたった。