地租改正の実施

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地租改正事業は、以下の段階を経て実施される。第一段階は地押状量という、村のすべての土地を一筆ごとに検査し、測量する作業である。神奈川県では、地押状量にあたって十字法という比較的簡便な測量方法が採用され、斉藤家などには、その測量方法のマニュアルが残されている(図1-8)。地押状量にかかる経費は村費とされ、人足も村の負担となった。地押状量の結果は、字ごとに「野帳(やちょう)」に記録された。小平でも一八七四(明治七)年三月より地押状量作業が開始された。

図1-8 「十字縄雛形」 1875年3月

 地押状量の次が、測量結果をもとにした地引絵図の作成である。壬申地券の時にはそれほど細密なものはつくられなかったが、地租改正にあたっては、一筆ごとに詳細な情報を書き込んだ絵図の作成が命じられた。
 神奈川県内の地押状量は、一八七五年にはあらかた終了した。これを受けて、一八七六年三月三日に「関東八州地租改正着手ノ手順」が公布され、関東共通の地位等級の基準が示された。地租改正にあたっては、武蔵野台地がローム層の低生産畑作地帯であり、旧幕府領の占める割合が高いという共通条件をもつことから、関東一府六県で共通の方針を定めるために、地租改正事務局が組織されていた(滝島功「地祖改正事務局の基礎的考察」)。関東全体の畑作旧幕領地域でいかに増租するか、ということが、地租改正事業の大きな課題だったからである。結果的に、関東のすべての府県で増租となり、東京・埼玉・神奈川・群馬の畑の税額は、旧貢租の二倍以上にもなった。