無収穫地をめぐって

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一八七六(明治九)年三月に地位等級編成基準が示されたのち、一年をかけて実際の地位等級編成がおこなわれた。そのさなかの一八七七年四月、無収穫地の検査を願う嘆願が一一大区九小区の小川村・小川新田・回田新田(以上、小平)・野中新田六左衛門組・榎戸新田・平兵衛新田(以上、現国分寺市)の六か村から出された。その内容は、家ごとの地割の境に植えられたウツギ(空木)並木を、無収穫地として免訴してほしいというものであった。小川村をはじめとする新田村落は、街道に面して短冊形に整然と地割りされており、その地割りの境には、防風も兼ねて垣根が設けられていた。この場所は収穫のための生産地ではないため、免租されてしかるべきだというのである(「以書付奉願上候」)。また嘆願では、隣接する一〇大区では無収穫地が免租されている事例を取り上げて、その不公平さも問題とした。新田特有の地理的条件という特殊性と、政府のいう公平性という二つの論理を用いて、無収穫地の免訴を主張したのである(滝島功「武蔵野と地祖改正」)。

図1-9 「以書付奉願上候」1877年4月

 この嘆願には、各村の代議人・村用掛とともに九小区の戸長・副戸長も署名している。小川村の村用掛小野弥右衛門と九小区戸長の斉藤忠輔(回田新田)が惣代であった。この嘆願の経緯からは、地租改正の実施者となった村役人が、強硬に免租を求める小前層の訴えを受けて、地域の惣代となって嘆願したことがわかる。地租改正の実施にあたって小平の村々では、地租改正の実施者と位置づけられたにもかかわらず、村役人たちが地域の代表として動くようになっていたのである。この嘆願は受け入れられ、県から官吏が派遣されて実地調査がおこなわれた(「無収穫地取調書上帳」)。その結果、無収穫地の免租が一部認められた。