一八七七(明治一〇)年七月、地租改正の第一段階が終了し、神奈川県の地位等級が策定された。しかし、結果は政府の期待ほどの大幅な増租とはならなかった。そこで翌八月、関東の地方長官会議が開かれ、関東各府県の地租総額目標が設定されることになった。第一次の調査結果に租税を上乗せし、目標値の水準まで引き上げる方針が決められたのである。神奈川県でもこの方針を受けて地位等級体系が見直され、「更正表」が作成された。
県は、同年一二月以降、更正表にもとづく新たな更正地価を管下の村々に提示して受諾を求めた。しかし、一一大区では、全ての村が請印を拒否した。更正地価の受け入れは難航し、以後、一八七八年四月まで、県下全村で更正地価を村々に提示し、請書を取る作業が続けられる。この改租請書の提出によって地租改正は終了となるため、県からは県官がたびたび廻村し、更正表の受け入れを説諭してまわった。同年六月までに大半の村々が更正表を受け入れたが、神奈川県で最後まで更正地価の受け入れに抵抗したのが、小平の村々だった。