更正地価への修正反対運動は、一八七八(明治一一)年六月より本格的にはじまった。この運動は滝島功によって概に詳しく分析されているので、それを参照しつつ、以下、反対運動の展開をみていく。六月一四日、一一大区九小区では、県官が田無村に各村惣代を招集して予定額を提示し、受け入れを迫った。これに対し、先に無収穫地検査願を出した六か村は受け入れに強硬に反対する。その理由は「地租御改正の義は全国一般公平を元とするの御趣意柄と兼て御布達の義に付き、前顕の通り意外の差異これあり候ては何分御受調印仕り兼ね」というものである(「上申書」)。「公平」であるはずなのに、隣接する地域と比べて九小区の税額は高すぎる。よって、更正地価を受け入れることはできないというのである。引き合いに出している隣接地域とは、一〇大区の是政新田(現小金井市)・戸倉新田・本多新田(以上現国分寺市)と考えられる。これらの村々は地続きの同じ武蔵野新田で、歴史的地理的条件を同じくする地域であった。
この嘆願も、無収穫地免訴の嘆願と同様、各村の総代人と村用掛、九小区戸長の斉藤忠輔が中心となっており、地租改正取調掛惣代の下田半兵衛も訴えを支持した。下田は、訴願への補足として県に対し、武蔵野新田の低生産性と由緒を斟酌(しんしゃく)すべきだとの意見を述べている。しかし、村役人はたびたび県庁に召還されて請書の提出を迫られたため、やむなく請書を提出してしまった。
地価修正反対の動きは九小区だけではなく、一小区に属する鈴木新田でもみられた。同年七月二六日、鈴木新田では村用掛と総代人から神奈川県権令にあてて、更正地価の不公正を訴える嘆願書を提出した(「歎願書」)。総代人の一人である井原竜平は、御門訴事件でも惣代に名を連ね処罰された人物であった。この嘆願は、関東の地租改正を主導する地租改正事務局宛にも出されているが、そこには「猶御県庁え嘆願致し呉候様村民一同挙而これを申し、私共に於ても切迫罷り在り」と、村民から村役人に対する突き上げが強くなっていたことが記されている。