武蔵野新田の由緒とあらたな結合

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このように、一一大区九小区の六か村と一小区の鈴木新田は、一〇大区の武蔵野新田村々と比較して等級が高すぎるので是正してほしいと、一八七八(明治一一)年六月から七月にかけて嘆願をおこなった。両者は小区が異なっていたことから、この段階では別々に嘆願をしていたが、九月に入り、新たな展開がみられるようになる(滝島功「武蔵野と地祖改正」)。
 鈴木新田は九月に行った嘆願で、九小区の村々と鈴木新田は「素々武蔵野同年度開墾瘠薄同等地位にこれあり」と主張した。「同年度開墾」の一言を加え、単に新田であるというだけでなく、享保期に開発された武蔵野新田であるという主張を全面に押し出したのである(「歎願書」)。この武蔵野新田意識は、近世後期の助郷などの忌避運動でその根拠として持ち出され、御門訴事件の社倉制度反対でも主張されていたものであった。
 もう一つの新たな展開は、九月二六日に九小区から出された嘆願が惣百姓連印という形式で地租改正事務局宛に出され、その嘆願から小川村が消えたことである。運動の展開のなかで村内の団結が強まるとともに武蔵野新田意識が強まり、武蔵野新田ではない小川村が離脱を余儀なくされたのであろう。この嘆願書(「以書付奉歎願候」)では、これまでの嘆願の論理が整理され、主張が以下の六か条にまとめられている。①地価修正の方法が不正である、②隣接新田と不均衡である、③新田地帯の低生産性が勘案されていない、④武蔵野新田の沿革やこれまでの助成金の獲得が勘案されていない、⑤宅地内藪林の処理方法が規定と違う、⑥これまでの運動の経緯と一度請書を提出したことへの弁明、の六つである。
 こうして小平の村々は、武蔵野新田であることを根拠に、更正地価の受け入れに徹底して抵抗した。そして、同年一〇月三〇日の嘆願には、九小区小川新田・回田新田・野中新田六左衛門組・榎戸新田・平兵衛新田と、一小区の鈴木新田が合流するとともに、新たに一小区の野中新田善左衛門組・同与右衛門組及び大沼田新田も参加する。武蔵野新田の由緒を共有できる結びつきが、小区を越えて組織されたのである。
 このとき出された「再三歎願書」では、これまでと同じく、武蔵野新田の歴史的地理的条件、一〇大区のほかの武蔵野新田村々との不均衡を指摘するとともに、そうした不均衡が生じた原因についても取り上げている(近現代編史料集⑤ No.九)。それは、区長下田半兵衛が「人民の難渋は顧(かえりみ)ず旦に官へへつらい」、本来主張すべき武蔵野新田の等級引き下げを、県の意向を汲んで主張しなかったために不均衡が生じたというのである。地価修正反対運動は、武蔵野新田という歴史性を共有するあらたな結合を生み出す一方、運動の方向は不公正の是正とその原因の追及に向けられるようになったのである。

図1-10 「再三歎願書」 1878年10月