運動のなかで県寄りの姿勢を追及されるようになった下田半兵衛は、一八七八(明治一一)年一一月一三日、神奈川県に宛てて「御救助拝借願」を提出した。暴風雨と麦の病気の発生によって被害を受けた一三か村に対し、無利息五か年賦で四千円の貸与を申請したものである。みずからに向けられるようになった追及の矛先をそらし、運動の終息をはかるために、県に妥協案として提案したのであろう。県は翌一八七九年五月、小川新田・鈴木新田を除く一一か村への貸与を許可した。鈴木新田・小川新田を除外したのは、更正地価受け入れに従わず、「不服の念慮未だ全く消滅致さず」との理由からで、両村への貸与の条件は「悔悟(かいご)」だとした。県は、地租改正による租税額の増加に反対する村々に対する懐柔策として下田の提案を受け入れるとともに、反対の激しかった両村を救助対象から除外することで、運動の分断をはかったのである。
「悔悟」を求められた鈴木新田・小川新田は、処分されることを覚悟のうえで拝借を拒否した。救助金の下賜を打診された回田新田も、「御救助の儀は素々地位等級不比較より御救助相願い候得共、是を拝借仕り候得ば改租高額の恐而已(のみ)ならず返納方往々心痛仕り候に付き何れにか取り続き方仕り度候」と拝借金の貸与を拒否した(「御救助拝借免除願」)。拝借金の受諾は、更正地価を受け入れることになり、また、貸与であるから後年返済に苦しむはずであるとして拒絶したのである。一方、他の村々は救助金を受け入れた。いったんは小区を超えて結合した武蔵野新田の村々であったが、救助金の貸与と引き替えに地価更正を受け入れさせるという県の方策により、分断されることになったのである。
図1-11 地租改正嘆願村々の絵図