地価修正反対の根拠として強調されたのは、武蔵野新田という由緒を持つ生産性の低い土地であり、これまでも助成金を受けてきたという歴史であった。この武蔵野新田意識は近世から続いてきたもので、その面からみれば、地価修正反対運動は近世以来の訴願の延長線で考えることができる。しかし、この根拠はこのとき、県によって明確に否定された。これ以降、地租をめぐる嘆願に、武蔵野新田であるという主張をみることはできない。武蔵野新田という由緒は、もはや税の減免などの論拠とはなりえなくなったのである。
「悔悟」を求められていた小川新田・鈴木新田は、一八八〇(明治一三)年、方針を転換して「救助金拝借願」を出し、無利息一〇か年賦の条件で各二五〇〇円の貸与を受けた。県と妥協する道を選んだのである。このとき両村は、受け取った救助金総額五千円のうち、二千円を大沼田新田ほか一〇か村に分配している。周辺の村々と協調して村の安定をはかろうとしたのであろう。しかし、「悔悟」を求められなかったにもかかわらず、拝借金の貸与を拒否した回田新田は、妥協しなかった。回田新田の中心人物は、運動の惣代をつとめていた九小区戸長の斉藤忠輔である。次節で詳しくみていくが、彼は救助金を拒否した一八七九年、肥料の移入などの陸上輸送の改良を目指す培養商会の設立に参加し、殖産をはかるための金円貸付会社・国盛社の発起人にも名を連ね、小平における「改良進歩」の活動の中心的存在となっていく。武蔵野新田であるという由緒に頼って補助を受ける消極的な姿勢から脱却し、自らの努力によって地域の進歩をはかろうという積極的な活動へと乗り出していったのである。「自治」を学ぼうという動きが広がっていくのもこの時期のことである。