通船の開始と小平

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江戸市民の上水として開かれ、武蔵野新田の用水としても使われていた玉川上水に、一八七〇(明治三)年五月から一八七二年五月まで船が通った。すでに近世編第二章第三節で触れたが、一七七〇(明和七)年に小川村の名主弥次郎の父東〓(とうはん)が、小川村への市場開設にあわせて通船の請願を出すなど、通船実現の動きはあったが、上水であることを理由に認められなかった。しかし、幕末になり、江戸の衰退によって道路管理に不備が生じ、その対策の一つとして羽村にあった砂利を利用する案が作事奉行(さくじぶぎょう)内で立てられたことから、その輸送手段として通船計画が浮上することになった。この計画は一八六七(慶応三)年九月、上水の羽村陣屋役人をとおして地元に伝えられた。それに応えて、砂川村(現立川市)名主の砂川源五右衛門(げんごえもん)は、一〇〇艘の船を月六度ずつ往復させて物資の輸送をおこなうかわりに、砂利一三三坪三合と運上金一八〇〇両を上納する計画をまとめ、「運上目論見書」として提出する。幕府側から求められた砂利上納を請け負うことで、物資輸送の手段としての通船を実現し、それを梃子に地域開発をはかろうとしたのである。しかし、まもなく幕府が倒れたことから、この計画は挫折することになった。
 明治に入っての通船は、幕末の通船計画で地域開発への期待をふくらませた地元が動き出すことによって実現へと向かった。一八六九年九月、砂川源五右衛門、羽村名主島田源兵衛(げんべえ)、福生村名主田村半十郎(はんじゅうろう)の三名により通船の願書が提出された。そこでは、玉川上水沿岸地域は「薄地軽土」の土地で「粉糠藁灰等」の肥料が必要なため、それを東京より小荷駄で運んでいるが、駄賃上昇のため難渋しているなど、地元の経済的困難さを指摘し、通船への期待が語られている。それとともに、通船の実現で「御府内」の物価も下がり、さらに甲州、信州へも経済的効果が広がって「莫大の御国益」になるだろうとも主張した(「玉川上水へ船筏通行の願」)。この願いは、当時上水を管理していた民部省内で検討され、一〇月二八日、通船実施が達せられた。この達しでは、各村三艘までという上限をつけ、造船の願を出すよう求めている。
 達しにすぐに反応したのは羽村など玉川上水上流地域の村々で、翌一八七〇年二月には「玉川上水御上水源人足村々」が会合し、各村一艘以上の造船が合意されている。三月には通船実施のための堀の切り広げ、橋のかさ上げなどもおこなわれた。しかし、まだこのころまでは、小平を含む玉川上水中流地域は造船などの動きを示してはいない。このことは、通船を推進していた上流地域の村々や民部省の予想に反していたようである。羽村などから各村への出願督促を求める願いが出され、同月二五日、造船数の制限をつけない二度目の造船を求める達しが民部省から発せられた。玉川上水通船は玉川上水上流地域が推進し、中流地域の村々はその動きを見守っていたのである。
 四月一五日、試乗の船がはじめて玉川上水を下った。そして、五月二八日、羽村などの六艘の船に極印が打たれ、通船が開始された。この通船開始の実際を目の当たりにして、小平など中流地域の村々でも、通船への参加による地域開発への期待が大きくふくらむことになる。

図1-12 小川村の船溜(「玉川上水通船一件」)1870年6月 都立中央図書館所蔵