明治に入っての通船は、幕末の通船計画で地域開発への期待をふくらませた地元が動き出すことによって実現へと向かった。一八六九年九月、砂川源五右衛門、羽村名主島田源兵衛(げんべえ)、福生村名主田村半十郎(はんじゅうろう)の三名により通船の願書が提出された。そこでは、玉川上水沿岸地域は「薄地軽土」の土地で「粉糠藁灰等」の肥料が必要なため、それを東京より小荷駄で運んでいるが、駄賃上昇のため難渋しているなど、地元の経済的困難さを指摘し、通船への期待が語られている。それとともに、通船の実現で「御府内」の物価も下がり、さらに甲州、信州へも経済的効果が広がって「莫大の御国益」になるだろうとも主張した(「玉川上水へ船筏通行の願」)。この願いは、当時上水を管理していた民部省内で検討され、一〇月二八日、通船実施が達せられた。この達しでは、各村三艘までという上限をつけ、造船の願を出すよう求めている。
達しにすぐに反応したのは羽村など玉川上水上流地域の村々で、翌一八七〇年二月には「玉川上水御上水源人足村々」が会合し、各村一艘以上の造船が合意されている。三月には通船実施のための堀の切り広げ、橋のかさ上げなどもおこなわれた。しかし、まだこのころまでは、小平を含む玉川上水中流地域は造船などの動きを示してはいない。このことは、通船を推進していた上流地域の村々や民部省の予想に反していたようである。羽村などから各村への出願督促を求める願いが出され、同月二五日、造船数の制限をつけない二度目の造船を求める達しが民部省から発せられた。玉川上水通船は玉川上水上流地域が推進し、中流地域の村々はその動きを見守っていたのである。
四月一五日、試乗の船がはじめて玉川上水を下った。そして、五月二八日、羽村などの六艘の船に極印が打たれ、通船が開始された。この通船開始の実際を目の当たりにして、小平など中流地域の村々でも、通船への参加による地域開発への期待が大きくふくらむことになる。
図1-12 小川村の船溜(「玉川上水通船一件」)1870年6月 都立中央図書館所蔵